長南年恵

超絶のスピリチュアル・ヒーラー列伝  長南年恵

長南年恵さん画像出典:「霊人の証明」(中央アート出版)

長南年恵(ちょうなんとしえ・1863~1907)

※この稿は2010年に「神人長南年恵」をアップしたものに加筆修正を加えたものです。

古今東西、常識では測りえない超人的な人物はいますが、明治時代の長南年恵ほど不思議な人はいません。
日本の心霊研究の大家である浅野和三郎をして「明治時代の日本が生んだ稀代の大霊媒」と言わしめる程その能力は卓越したものでした。
浅野和三郎は宗教大本の創始者の一人出口王仁三郎の片腕として活躍し、その後大本を離れた後心霊研究に没頭、心霊科学研究会を設立しました。
心霊科学研究会はその後日本心霊科学協会となり、現在でも東京下落合で活動を続けています。

さて、多くの霊媒を見てきた浅野和三郎にして「稀代の大霊媒」と言わしめる程の人物であるのに長南年恵は現代ではほとんど知名度がありません。
長南年恵は神がその身に降りていた人物で様々な超常的物理現象を起こしました。
特に神水という水を何もないところから現出させ、これが万病に効くと非常に評判になっていました。
物理現象を起こすだけではなく、天眼通(居ながらにして何でも見通すこと)や天言通(祖霊を自分の身に降ろして語らせること)の能力を持ち、巫女として多くの民衆の相談にのり人生を更生する様助ける人生を歩みました。

長南年恵は1863年に山形県鶴岡市に生まれました。
幼少の頃は極めて寡黙な娘で、また馬鹿みたいに無欲で人が欲しがるものは何でもあげてしまう娘でした。

実は無欲というのは卓越したヒーラー、霊能者に共通する資質であります。
気功師・ヒーラーでも能力が絶大な人は損得勘定がないというかどこか「馬鹿」っぽいところがあり(すみません・・・)、その無執着さがあるからこそ背後の神仏と深くつながりを持てるのだと思います。
物理現象を越えることをしているわけですから、物質に執着がありすぎるのは適性ではないのでしょう。

長南年恵は20才あたりから巫女として開業していた様です。
しかし、それ以前の情報は乏しく、少女時代は身体が弱かったためか一日に卵1~2個位しか食べなかったと伝わっています。
この時期に食を制限せざるを得ない状況であったことが、身魂の浄化になり後の巫女としての土壌を作ることになっていたと考えられます。
他にも超絶したレベルの霊能者やヒーラーはこの様に病気によって絶食期間があったり、長期の断食をしていたりする過程を経て能力が開花することが多くあります。
また長南年恵は御嶽教の行者として巫術を学んでいた様です。
おそらくそれがきっかけとなり、巫女として神人合一の境地に到達したのでしょう。

さて、長南年恵の肉体的な特徴を列挙してみますと・・・

 30才以降44才で没するまで強要されたケースを除いてほとんど食べることはなかった。

 しかし、それでいて体力は常人以上であった。身体が軽いためか歩くのが早く一緒に歩く人はついていけなかった。一升瓶10~20本程の重量の水桶を軽くかついで歩いていた。年恵は子供の様な遊びを好み綱引き・腕相撲・重い物を持って競争する・・・などそんなことばかりして笑い興じていた。力は大変強く屈強の男と腕相撲をしても負けることはなかった。綱引きは大の男が3~4人でかかっていっても年恵には敵わなかった。ただ不思議なことに誰かが年恵の背後にまわるとその怪力はたちまち消失した。

 一度煮た水は飲まなかった。弟が飲めないのではなく、飲もうとしないのだろうと考え姉の年恵に湯冷ましを「生水だ」と偽って飲ませると、その度に苦しみ吐血をした。

 排泄がなかった。どんな暑い日でも汗をかかなかった。

 35才の段階で「まるで13、4才の小娘そっくり」という証言記録がある。食べずとも老けることなく透き通る肌の若々しい肉体を保っていた。身体には常に芳香が香り髪は漆黒に美しくフケはまったくなかった。

 44才で没するまで一度も生理が来なかった。

 神懸かりになると不思議な物理現象が起き、まわりの人を震撼させていました。
神が降臨すると態度も声もまったく別人になっていました。

 何もないのに家鳴りや振動がした。

 アポーツ(物質移動)が起き、何もないところから物質が現れていた。これは神様からの贈り物ということだった。

 空の瓶に水をどこからともなく引き寄せ、これが万病に効くと有名になり、日本全国から人が押し寄せることになった。

 日清・日露戦争などの政治的預言が正確に的中した。

 無学であるにも関わらず入神状態になると衆人の前で格調高い漢詩の書画を書いた。これはご本人も何が書いてあるかよく分からなかったみたいです。霊的背後に弘法大師・空海がいて、空海が書かせていた様です。(空海は能書家として知られその時代の三筆の一人として著名です。)

 突然姿を消す

 年恵が「お手かざす」という手かざしをすると火もないのにお湯が沸いた。風呂の水もそれで沸いた。また、空瓶に手をかざすと甘酒が出て来た。

 

この「お手かざす」について年恵と親しかった友人小竹繁江さんはこう証言しています。

「不思議なのは年恵さんのやられた『お手かざす』という行法です。風呂に水を汲み込んで、お手かざすをやると、少しも薪炭を用いずに風呂の水が忽ち熱くなりました。私はよくこのお手かざすの風呂に入ったものです。また、甘酒などもこのお手かざすですぐに出来ました。空瓶二本あれば美味しい甘酒がいくらでも戴けるのです。その結構な味は今でも忘れられません。そのくせご自分は飲食物不要な方ですから、そんなものは一切他人に施すだけでした。」

アポーツ(物質移動)は年恵の日常ではまったく珍しくなかった様ですが、信者の高野寿鶴さんはこの様な不思議な体験をしています。

私が実地目撃した中で、今でも不思議と思っているのは、茅葺の物置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難をここに引き取ったものだそうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は子供心にブルブルと震えながらそれを見物していました。火は今にも屋根裏に燃え移りそうに見えながら、やがて何事もなく鎮火し、そして小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかったということです。」

突然姿を消す・・・とは、何のことと思うかもしれませんがこれはまさに文字通りの現象で、いつの間にかいなくなって、いつの間にか戻ってくるというテレポーテーション現象です。
明治33年の2月、大雪の夜の話です。
弟の雄吉氏が語るには、夜の9時をまわった頃に家人が「年恵さんの姿が見えない」と探し回っていたそうです。
家族や泊り込んでいた信者の人達が皆で家や近所を探してもどこにも見当たらない。
しかも外は大雪で1mも積雪があり容易に外出もできない状況でした。
皆が諦め、夜の3時を過ぎた頃、突然縁側にドシン!と物音がしたので何事!と皆が駆けつけると縁側の傍らに年恵がニコニコと笑いながら立っていました。
「おお寒い寒い。神様が妙な山に連れて行ったものだから、凍えてしまった。」と言いながら座敷の火に当たりに行ったそうです。
外を探した人達は自分達が足跡を見落としたのではないかともう一度家の周囲の足跡を確認しに出たのですが、それらしい足跡はどこにもなかったということでした。

長南年恵は死後既に100年もの時が過ぎており、直接知る人は既にこの世になくまた記録も非常に乏しい状況で、非常に突出した霊力を持っていたにも関わらず現代では知名度が低く既に風化してしまったかの様です。
しかし、生前信者だった人の子供(といっても相当ご高齢)がその話を細々と今に伝えています。
長南年恵という本名よりも「極楽娘」という愛称の方がよく通じる様です。
極楽娘という愛称は、あの世(極楽)にいる人の言葉を伝えるメッセンジャーの役目をしていたからということです。
要は日常よく霊界通信をしていたのです。
この様な霊能力が出てきたのは30才前後の頃からで、睡眠中の年恵に先祖霊が憑かり年恵の口を借りて色々と物語をするので年恵の母は大変驚いたというエピソードもあります。
最初の頃は睡眠中の本人の意識がないところで霊界通信が起こっていましたが、その後は睡眠中でなくても意識的に霊界のメッセージを伝えていました。

また、長南年恵は万病に効く神水を現出させることで有名でした。
年恵の家には口コミで神女がいると連日大勢の人が押しかけて来ましたが、玄関に入ってくる段階でその人の病気が分かりました。
人は空瓶を持ってくるのですが、年恵は空瓶を神棚に供えます。(栓はしたままの状態)
年恵が10分程神様に祈ると瓶が神水で一杯になります。
それは病気の種類によって様々な色があったということです。
さらに凄いのはその効力でどんな病気も治ったということです。(95%の効力がありました)
しかし、神から不治とされた者(カルマによる病気)やテストをしてやろうというよこしまな気持ちで来たものの瓶には神水は入りませんでした。

実弟の雄吉氏の言によると、

「姉が神前に跪座して祈願する時間は通例十分間内外です。すると右の密閉されたる十本なり二十本なりの壜の中にパッ!と霊水が同時同刻に一杯になる、それが赤いのやら、青いのやら、黄色いのやら、樺色なのやら、疾病に応じてそれぞれ色合いが違います。いや実況を見ておりますと、まるで手品のようで、ただただ不思議と感嘆するより外に致し方ございません。」
「いやその効験と言ったら誠に顕著なものでどんな病気もズンズン治りました。もっとも神から不治と鑑定された人、また試しに一つやらしてみようなどとした者の壜には霊水が授からないのは不思議でした。十本か二十本の中にはそんなのが一本位は混ざる様でした。そんなあんばいで壜の数は何本までという制限はなかった様に思われますが、私の知っている所では、一時に空壜がズラリ四十本ほどお三方の上に並んだのがレコードでございました。」

神水を現出させるのは、まさに神が為す技としか言いようがありませんが、それをするために年恵が病人の邪気を受けるダメージというものもあり、それを信者の高野寿鶴さんはこう証言しています。

「重い病人を代理でお願いに参りますと、その人が年恵様の家の敷居をまたぐと同時に年恵様のお体が、その病人と同様の苦痛が始まりますので、実に見ていてお気の毒に堪えないようにおもうのでございました。」

こうした長南年恵の能力は世間に広く知れるところとなりました。
インターネットもない時代に信じられないことですが、年恵の生家はまるで黒山の様な人だかりで、それを警官達が追っ払っている騒ぎという有様でした。
それもそのはずで年恵の身体に神が御降臨となると説明のできない奇怪な現象が続出していたからです。
驚くべきは御降臨の際には空中に色々な音楽、例えば笛・ひちりき、筝、錫、鈴等の演奏が聞こえ出すのでした。
修行が進んだ人の中には自分自身にその様な現象が起こるというのはあり、それは理解できなくもないのですが、年恵の場合は同じ場に居合わせる数十名~数百人、警戒中の巡査の耳にまで聞こえていたのです。

神様の音楽について小竹繁井さんはこう語っています。

「神様からの音楽は最初遠方に聞こえますが段々接近し、しまいには年恵さんの部屋の内部に聞こえます。部屋へは他人の出入りを禁じてあるのでどんな風にやっているものかは誰にもわかりません。」

実弟の雄吉氏はこの様な登山の話を述懐しています。

「姉はよく登山をしました。富士登山の時には自分で布団を背負い一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み同行の7・8人は弱ったという話です。私が同行したのは羽後の鳥海山と羽前の金峰山のみですが、いつもその健脚には驚かされました。途中姉は地上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必ず笛その他の楽声を耳にしました・・・」

長南年恵には様々なご神仏が降臨した様で、そのご神仏によって楽器が異なっていたそうです。
それは例えば天照大神は筝、古峰ヶ原金剛山は笛、大日如来は鈴、弘法大師は風鈴という音の違いでした。

やがて官憲に目を付けられ「妄(いたずら)に吉凶禍福を説き、愚民を惑はし世を茶毒する詐欺行為」という理由で逮捕されてしまい、明治28年に60日間監獄に入れられることになりました。
ところが、監獄内でも飲まず食わず、両便もない。
夏なので蚊に悩まされるだろうと獄吏が蚊帳を貸そうとしても「不要」と断り、それでもまったく蚊に刺されることもありませんでした。
しかも監獄内でも神様が来たときに奏でられる音楽が度々鳴り響いていました。

監獄に拘束されたことは年恵にとっては災難であったと思います。
しかし、年恵が起こす物理現象は自宅であればともすると種や仕掛けがあると考えられなくもないのですが、監獄の中で起こっていたことは却って年恵の能力を実証することになりました。
実弟の雄吉氏は姉の年恵の拘留中の生活状況について次のような事実証明の願書を求めました。

① 両便が不通になりし事
② 絶食の事(前の六十日間拘禁の時は、監獄規則上何か食へと強ひられ、一日に生芋二十目づつを食したるも、後の七日間は一物だも食物を口にせず、一度葡萄を口中に入るるや忽(たちま)ち吐血したる事実)
③ 拘禁中前署長有村実礼の需(もと)めに応じ、檻房内にて神に願ひ、霊水一壜(びん)、お守一個、経文一部、散薬一服を授けられて之を署長に贈りたる事
④ 同囚の需(もと)めにより、散薬を神より授かり之を与へたるに、身体検査に際し右の事実が発覚せる事
⑤ 監厨内に神々御降臨の場合には、掛官の人々が空中に於て笛声其他の嗚物を聞きたる事
⑥ 監房生活中姉の蝶々髷(まげ)は常に結ひ立ての如く艶々し、しかも芳香が匂い立って居り、姉は 神様が結つて呉れるのであると言ひ居たる事
⑦ 一斗五升(※一升瓶〔1.8ℓ〕15本分)の水を大桶に入れ、それを容易に運搬し居たる事
⑧ 夏期蚊軍来襲するも、年恵の身体には一疋もたからず、逐に在監中姉一人のみ蚊帳の外に寝臥した事

この証明願いに対し、鶴岡署は「証明を与ふるの限りにあらざるを以って却下す」と、事実を否定することはしないが証明を与える必要はないという回答をしています。
結局、証拠不十分として釈放されたのですが、官憲の監視は更に厳しくなり明治33年に再逮捕されます。
そして大阪区裁判所で拘留10日間の判決を受けたのですが、元より罪があるわけでもなく、弟の雄吉氏が控訴し、神戸地方裁判所で再審となりました。

この時、審議を重ねても埒があかず中野岩栄裁判長が年恵に対し「被告はこの法廷においても霊水を出すことができるか」と質問をしました。
それに対し年恵は平気で「それはお易いことでございますが、ただちょっと身を隠す場所を貸して頂きたい」と答えました。
長南は着衣を全て取られ厳重に検査をされた上で個室に移されましたが、その個室にて神水を現出させ裁判長に提出しました。

「この水は何病に効くのか?」
裁判長が尋ねると、年恵はこう答えました。
「万病に効きます。特に何病に効く薬と神様にお願いした訳ではござりませぬから・・・」
続いて裁判長が「この薬を貰っておいてよろしいか?」と尋ね、
年恵は「よろしゅうござります。」と静かに答えました。

こうして、そのテストによって尋問は終了し即刻無罪の判決を得、年恵は解放されました。

明治から昭和初期にかけて日本では霊術が興隆をみせていましたが、政府はこれを迷信とし撲滅させようとやっきになっていました。(現代の気功の一部も当時の霊術の範疇に入ります。)
文明開化によって西洋文明が日本に入り込み、古来より伝承されてきた霊術や東洋の古典医学はほとんど壊滅状態になりました。
現代でも社会通念や学校教育はそうした流れを受けついでいますので、今でもこうしたものを「あやしい」として考えることを頭から拒否する人は多くいます。

長南年恵もまさにそんな風潮の被害者であったわけです。
しかし、年恵の場合は多くの記録や書画、裁判記録などが残っておりその能力は疑いようのないところです。

やがて年恵は神様から「近いうちに連れて行く」というお告げを受け、その2ヶ月後に静かに他界しました。
年恵の死後に親類縁者・信者が彼女の遺品を整理したところ、財産はほとんど恵まれない人に施してしまったために、わずかの金銭も残っていなかったとのことです。
長南年恵は世間でいわれのない弾圧を受けましたが、極楽娘、年恵観音と呼ばれ多くの衆生を救済した人生を歩み、死後南岳寺にて淡島大明神として今も祀られています。

最後に、44年という短い衆生救済の生涯を過ごした年恵が読んだ歌を紹介しこの稿を終わりたいと思います。

諸人のためとしあらば 我が身こそ
水火の中も いとうものかは

 

参考文献:「日本神人伝」(不二龍彦/学研)
「霊人の証明」(丹波哲郎/中央アート出版)
       「神秘家列伝2」(水木しげる/角川ソフィア文庫)
       「長南年恵物語」(浅野和三郎/八幡書店)
       「真正・日本霊能者伝」(中矢伸一/廣済堂)