2014年11月 インド修行記 ~シルディテンプル編~

2014年11月 インド修行記 ~シルディテンプル編~

シルディ・サイババシルディ・サイババのサマディー(墓)
【 シルディテンプル 】

11月10日の午前に無事というか、何とか日本に帰国することができました。
日本に帰ってくると心底ホッとします。
日本にずっといて海外に出ないとわかりませんが、日本程文化や民度が高く、世界中から尊敬を集めている国はないと実感します。
今回の修行をコーディネートしてくれたインド人のS氏は仕事柄世界中を飛び回っていて行ったことがない国はわずかという経歴を持ち、かつまた非常な日本通ですが、日本は世界で一番色々な食を楽しむことができる国だと言っていました。
政治・経済・社会を見ても問題はたくさんありますけれど、それでも日本は素晴らしいと言えると思います。

修行の前や最中に多くのお客様からメールで「インド修行とは凄いですね」とか「素晴らしいですね」とか激励のお言葉を頂きました。
メールを下さった方々、本当にありがとうございました。

外から見るとインドで修行を行うことは何から凄そうなことをしていると思えるかもしれません。
実際、他ではなかなかできない貴重な体験をしていると思っていますし、また自分自身が着実に成長をしている実感がありますが、インドに素晴らしい教えがある様に、日本や中国にも同じ様にあると思います。
たまたま私は縁あってインドで修行をする機会がありますが、それが日本にある教えより上でも下でもないのです。
インドに行くことが素晴らしいのであれば、そこに住んでいる12億のインド人は全員素晴らしいことになってしまいます。
霊性修行でも何でも人との比較や順位付けを好む人がよくいますが、日本が上でもインドが上でもその様なものはどうでもよく自分自身が成長しているという実感があればそれで十分なのです。
霊性修行とはその様なものと思います。

今回の修行の主な目的はインド最大の都市ムンバイから車で約6時間のところにあるシルディ村のシルディテンプルを参詣し、そこのトップグルジ(※グルジとは司祭)のプージャを受けるということでした。
また、インド北部のヒマラヤの玄関口、ヨガの聖地でもあるリシケシからPグルジを招待しクンダリーニを活性するエネルギーを受ける目的もありました。

シルディテンプルは、シルディ・サイババ(※以下、所により「ババ」と書きます)のサマディー(墓)があるところです。
(※こちらもご覧下さい。» シルディ・サイババ )

シルディテンプルはテルパティにあるヴェンカテーシュワラ寺院に次いでインドで参拝者が多い寺院です。
日本でいうと伊勢神宮か出雲大社かというイメージでしょうか。
一日の参拝者は定かではありませんが、数万とも言われています。

シルディテンプルへ向かう一団

ムンバイからシルディ村に向かう道を車で走っていくと50㎞位手前からシルディ村を目指す一団が歩いているのを目にします。
こんな遠くから歩いて向かうのだと驚嘆しましたが、気分的には日本の四国八十八個所巡礼の様なものかもしれません。

シルディ村への道

シルディ村への道シルディ村への道

その道中は写真の様な荒涼とした低い山並みが続きます。
その山々はなぜか一様に同じくらいの高さであり、離れている山それぞれに横縞模様の地層が現れています。
山によっては水の浸食跡の様なものも見えます。
かつてこの高さまで海があったのでしょうか・・・?

今でこそシルディ村は100件以上のホテルが立ち並び、街道沿いには雑然と店が並び人ごみに溢れています。
しかし、1800年代の後半にシルディ・サイババという一人の聖者が村に忽然と現れた時は何もない寂れた寒村だったのです。
シルディ・サイババがそこで奇跡を顕すに連れその高名はインドに広まり、やがてインド国中から信者が集まりだし寒村は徐々に賑やかな街へと発展していきました。

シルディ・サイババは日本ではほとんど無名の聖者ですが、インドではその名を知らない人はいません。
日本で有名なのはアフロヘアーのサティア・サイババ(1926年~2011年)です。
サティア・サイババは自身をシルディ・サイババの生まれ変わりと言っていました。
シルディ・サイババが他界して約100年になりますが、毎日数万の信者がシルディテンプルを訪れています。
なぜその様な多くの信者がシルディ村を訪れるかというと、それは明らかな現世利益があるからです。
非常な賑わいを見せるシルディ村でありますが、なぜかインド人ばかりで外国人はまったくと言っていい程いませんでした。
滞在期間中わずかに一組の西洋人を見ただけです。
私たち日本人は余程珍しいのか、よく視線を集めているなと実感しましたし、一緒に写真を撮ってくれとお願いされたこともありました。

人は人間界に生まれ様々な経験をしますが、誰もが大なり小なり苦悩を抱えています。
それを経験することが魂の成長・浄化のために必要なのでしょうが、人によってはその荷が重く疲れきって息も絶え絶えの人もいます。
釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)は王子であった若き頃、なぜ人生に生・老・病・死の苦しみがあるのか悩み苦しみました。
その答えを得るために王子の身分を捨て出家したのですが、釈迦と同じ様に私たちも生きている限り苦しみを逃れることができません。
シルディ・サイババはその様な重荷を引き受け、また人を正しい霊性の道へと誘います。
多くの人が自分自身の願いが叶う様祈り、それに対し明らかな霊験がなければこれ程までに多くの人は集まらないものです。

シルディ・サイババは自分のサマディー(墓)を参拝することについて生前この様な約束をしています。

1. 誰でもあろうとも、シルディの地に足を踏み入れたなら、苦悩は終わるであろう。
2. 私のサマディ(墓)に参拝するならば、たちどころに、悲惨さや惨めさは終わり、有り余る程の歓喜と幸せに変わるであろう。

私は長くシルディ・サイババを霊性の師として修行を重ねて来ていましたので、この約束事については知っていました。
しかし、シルディ村は日本からは遥か遠い地ですので、自分がいつか行くことになると考えることはありませんでした。
また、実際に墓を参拝しただけでババが約束する様な変化があるとは到底信じることはできませんでした。

寺社仏閣などや霊地を訪れるということは、神縁を大切にする者にとって気軽に行けるものではなく、呼ばれて初めていくことができるものです。
今回は私の修行の師匠の引率を頂く事ができ、シルディテンプルを詣でることができる様になったのは大きな喜びでありました。
1ヶ月前から入念に準備を重ね、インドの地で最高のコンディションでいられるよう自分を高めていきました。

ところが・・・

出発の2日前にある出来事が勃発し、私の心は奈落の底に突き落とされてしまいました。
それは私の関係者に起きた事故だったのですが、自分にとってその衝撃は余りにも重いものでした。
気持ちを高めてきたのに、この時期にそれが起きるとは・・・と嘆きたくなりましたが、出発の時は目前であり嘆いても仕方ありません。
その時、私の心はズタボロになり、地を這っているかの様な心境で生きる屍の様になっていました。

ようやく少し持ち直したのは出発の当日でした。
この様な出来事と遭遇しているのも私のカルマが出ているからなのだと認識していました。
シルディ・サイババの恩寵は訪問前から既に始まっていたのでした。
私が積み重ねたカルマを根こそぎ清算するために、ババが私にその様なイリュージョンを味わわせているのではないかと考えていました。
それはある意味カルマの浄化とも言えるのですが、それにしては余りに辛く立ち上がれない程でした。
鏡を見ても自分が死人の様な表情をしていました。
修行と言うのは、現地で行う苦行だけを指して言うのではなく、そこに至るまでの行程も含め修行なのだと思います。

そのような最悪のコンディションでしたので、インド修行の後半は体調を崩しひどい風邪症状の様なものが出てフラフラになっていました。
師は「たくさんエネルギーを貰ったから、エネルギー当たり(=浄化)だろう。」と言っていました。
今回は5名でインド修行をしたのですが、内3名は私とよく似た症状でダウンしていました。
これまで各地で色々な修行をして、その都度心身の浄化をして来ましたが、それでもまだまだ浄化しなければならないカルマ(業)があるものです。
修行とは本当に大変で、日常生活で身口意を穢さぬよう節度を持って過ごしているつもりでもその様になってしまいます。
こんな修行をしなければこれ程苦しむこともなかろうに、と思わないでもありませんが、自分の選んだ道なので心の上に刃を置いて忍ぶしかありません。
心身を浄化してカルマをなくしていかないと、魂に神のエネルギーは入って来ないのです。

シルディテンプル参拝は、シルディ・サイババのご本尊とサマディー(墓)に到達するまでに一般人であれば半日位延々と並ばなければならず、しかも参拝時間もわずか4・5秒といったところです。
それでも信者は人生の一大イベントを果たしたかの様に満足をします。
シルディテンプルは大変な賑わいで、ライブハウスに近い様な高揚感があり、多くの信者は歓喜にむせ興奮をしている様にも見えます。
半日もの長い間行列に身を置いて待ちくたびれたからなのでしょうか、誰かが歓喜の余り「バーバー!!」と叫べは、どこからともなくそれに唱和する様に「バーバー、バーバー」とコールが起こり、全日本プロレスのリングサイドの様相を呈していました。
聖地とは言え、そこには日本の伊勢神宮の様に凛と張り詰めた静寂な空気はありません。

私たち一行は師匠とトップグルジ(※司祭)との関係で、一般信者が半日も並ぶところをまったく待つことなく、一般人が立ち入ることができないVIP用の裏ルートを通り最前席で詣でることができました。
そこはインドでは大臣などのVIPのみが使うことができるところと聞きました。

シルディ・サイババ本尊前は大変なエネルギーでした。
グルジ2名がシルディ・サイババの墓に座っていて、私たち各自が差し出す布切れをサッとシルディ・サイババの墓に付けると、その布切れは一瞬にして強い神気(エネルギー)を発する特殊な布に様変わりしました。
私が普段エネルギーを物品に入れる際は時間を長くとって集中して行うものですが、そこでは一瞬の間でそれが完了してしまいました。

更にシルディ・サイババの足元に触れると、私自身も何かが変わった様に感じました。
シルディ・サイババとのつながりが一層強くなって、気(エネルギー)の出方や感じ方が一転した様に思えました。
一般のインド人信者であれば4・5秒しか居られないところを、私たち一行は随分と長く居させて頂けました。
多分その時居合わせたインド人は「何だあの日本人は!まったく羨ましい」と思ったに違いありません。
一般のインド人信者にとってババに祈るのは、あたかも一瞬に流れ去る流れ星にお祈りをするかの如くです。(しかもサザエさんがバーゲンセールで揉まれている様な押し合いへし合いの状態で!)
私がゆったりと参拝ができたのも師がトップグルジと深い関係があるお陰であり、本当にありがたかったものです。

私は浦和の施術室にあるシルディ・サイババ像にお祈りをする時は、いつも自分自身の願望をぐだぐだとたくさん言っています。
私は、シルディテンプルのババ本尊にお祈りをする時もそうするかと思っていましたが、いざ目の前に出ると、もし本当に何でも願いが叶うのであれば自分自身の小さな願いを言っている場合ではないなと考えが瞬時に変わり、日本と世界が平和であることと、天災が起きないことを静かに祈りました。
また、インドに来る直前に私の関係者に起きた事故でその本人が苦しまない様に祈りました。
私の願いはババに届いてくれたのではないかと思います。

このシルディテンプル参拝の他、シルディテンプルのアラティ(火の儀式)にも参加させていただいたりして非常に稀有な経験をしたのですが、その後の好転反応は先述の通りで、行のない時間は食事もとれないままベッドに伏せている状態でした。

その苦しい状態について師は「帰途ムンバイに着く頃には治まっているだろう。」と言っていましたが、実際ムンバイに着く頃には不思議と大方抜けた感じで身体が楽になりました。
私の様な不浄な人間がたくさん神気を頂くと浄化の反応も強烈になるのでしょう。

人は誰しも苦しみを抱えて生きているものと思いますが、その苦しみの多くはカルマが関係しています。
人のカルマは大きく分類すると①孤独のカルマ②お金のカルマ③色情のカルマがあると神様のお取り次ぎをする井内由香さんが言っていましたが、なるほどそうだと思います。
私も多分に漏れずその内の一つのカルマに長く苦しんでいました。

インドから帰って今約1ヶ月が経ちましたが、私はそれから一度もその苦しさが出て来ていません。
人の気持ちは波がありますから、調子の良い時は大丈夫でも、そうでない時はそれまで奥底に隠れていた苦悩が表に表れるものです。
しかし、シルディテンプルに参拝してから私にはその苦しみが訪れておらず、ババの言った約束というのは本当だったのだと改めて驚いていると共に、非常な感謝が湧き出ています。
日本の寺社仏閣でも霊験が高いところもあるでしょうが、ここまで大きな変容をもたらすところはあるのだろうかと思わずにはいられません。

もしあなたが重荷を投げ捨てるなら、私は必ずそれを持ち去るだろう。

これはババの約束の一つです。

私自身も何かが変わった様に感じていますが、帰国後わかったのはそれだけではなく施術室にあるシルディ・サイババ像のエネルギーも一転して変わっていました。

ジーザス(イエス)も仏陀も生前・生後すぐにはさほどその高名は広まっていなかったと聞きます。
シルディ・サイババもしかりで、生前や死の直後よりも現在の方が信者は多く、海外でもその名は広まっている様です。

シルディ・サイババとは果たして何者だったのでしょうか?
一説には、ダッタトレイヤー神(ブラフマー神・ビシュヌ神・シヴァ神の創造三神の統合神)が肉体をまとって現れたアバターであると言われています。
つまり、神が肉体をまとって降臨した存在であったということです。
末法の世、人が神を忘れ人心が荒んだ時代にアバターが降臨し人を正しい霊性の道に導くというのです。
人間の魂が過酷な修行の末に成長したからといえ、現在のシルディ・サイババの様な力になれるのでしょうか?
インドやインドネシアで出会った何人かの聖者が「シルディ・サイババは神であった」(つまり人間とは違う)と口を揃えて言っていました。

科学的であるということはある意味この物質世界を超えるものを理解できないということになると思います。
高度に発達した科学文明を持つ社会に生きる私たちはまだまだ人智が及ばないものがあるということに謙虚な姿勢をとらなければならないでしょう。
霊性が高まると直観力が高まり、書物やマスコミでは得られない情報が一瞬の内にダウンロードされていると感じることがあり、それによって独自の見識が開けていく時間があります。
それでも、知れば知るほどこの世界は謎が多く深遠でありそれに頭を垂れざるを得ません。

シルディ・サイババとは何か・・・今こうではないかというものを感じていますがまだまだ霊性を高めていかないとその確証は得られませんのでお話することはできません。
しかし、いつか悟りを得る時にはその答えは分かり、これまでのストーリーからこの世の成り立ちまでのすべてを識ることができるのではないかと思っているところです。

【2014年12月1日】