大東亜戦争で散華した特攻機「桜花」

桜花

桜の満開の時期を過ぎ、葉が桜花に交ざっている頃になりました。
今年もまた桜を見ることができて、本当に幸せだと感じます。
皆さまはどのように桜を楽しんだでしょうか。

今日は同じ桜の花でも違う桜の話をしたいと思います。
それは「桜花」という戦闘機の話です。

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一式陸攻の下部に吊られている桜花

大東亜戦争の末期の1945年、桜花という新たな航空兵器が誕生しました。
桜花は神風特別攻撃隊の一人乗り戦闘用飛行機であり、ミサイルを積んで突撃するためだけに作られた飛行機です。
飛行機というよりミサイルに羽と人が乗るコックピットがある木製滑降機、もしくは人間ミサイルという表現の方が適切かもしれません。
全長6メートル、翼幅5メートル、重量2.1t、先端部には1200㎏の爆弾が積まれています。

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コックピットより前に積まれている1200㎏爆弾

1200㎏の爆弾というと、当時通常の爆撃機が投下する爆弾が50㎏、特攻機が250㎏の爆弾を積んでいましたので、いかに強大な威力の爆弾かが分かります。

しかし、桜花はわずかな固形燃料しか積載しておらず、そのため自力で離陸することができませんでした。
そのため一式陸攻(飛行機の名前)の下部に吊られて敵の艦隊近くの空まで運搬し、高度6000メートルの空から急降下突撃をする方法を採りました。
飛行距離は30kmしか飛べません・・・というよりほとんど降下するだけです。
万一距離が届かない場合のために末尾部には3本のロケットが装着されており、それが9秒間分だけ噴射することができました。(たった9秒です!)

ミサイルに短い翼が付いている形状なので、零戦の様に器用に操縦することはできません。
ほとんど直線的に突っ込むだけでしたが、その最高時速は時速900kmにも達し如何なる敵も桜花を補足し撃墜することはできないとされていました。

アメリカではこの桜花を「BAKA」(馬鹿)というコードで呼んでいました。
特攻に恐れを抱きつつも狂気の沙汰としか思えなかったのかもしれません。

3月21日はこの桜花が始めて実戦に投入され沖縄に侵攻するアメリカ軍に攻撃をしかけた日であります。

南方の諸島の制海権はアメリカに局地戦での敗戦を重ね奪われてしまい、既に沖縄本島目前まで迫っていました。
フィリピンでの戦闘の時から始まった連合艦隊の特攻は、戦闘機の搭乗員が生還の望むことができない死への片道切符でしたが、この戦術は予想外の成果を挙げていました。

日本軍は物資も窮しており、特攻は身の振り構わずとった最終手段でありました。
アメリカの航空母艦の甲板に突撃し、撃沈または大破させれば日本への攻撃を遅らせることができたのです。

実際に特攻攻撃に参加した兵士は20才~33才までの若者でした。
まだ年端もゆかない若者で、生きていたいという気持ちは強かったことでしょう。
そんな彼らの内面の気持ちは今に生きる私たちには到底想像もつきません。
その時代、その状況におかれている者でしか分からない特殊な心理状態にあったものと思います。
彼らは若くして命を捨てることになる自分の運命に深く苦悩しましたが、それを表に出すことなく士気は非常に旺盛でした。
必ずや敵空母を撃沈すると決意をして多くの若鷲が南方の海へと飛び立ちました。

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特攻待機中の若い搭乗員、背後に一式陸攻と懸吊された桜花が見える

作戦が成功し自分が死ぬことで日本への攻撃の手を遅らせることができるだけではなく、敵の士気を消沈させる効果もあります。
特攻兵は自分の命を捨てる恐怖よりも、日本を、天皇陛下を、両親・家族を、恋人を守りたいという気持ちが優っていたのでした。
アメリカが本土に上陸すれば、日本は蹂躙され婦女は辱めを受けると信じられていました。
それが戦争というものです。
実際、沖縄本島では民間人10万人が戦闘の犠牲になっています。

そうならないためにも特攻兵は自分達が御国の楯にならなければならないという揺るがない気持ちがありました。
それは至高至純の愛の形と私は思います。
私たち日本人の近い先祖はこのような尊い境地にいたのです。
日本人はそれを誇りに思い、自身の血に流れる力を自覚し、明日からの生きる力につなげていかなければなりません。

桜花の攻撃力は大きなものでありました。
ハーバード大学のモリソン教授はその著書でこう記しています。

「(駆逐艦エイベルに)500ノット(時速926km)で『バカ』がやってきた。『バカ』は前部煙突下の左舷に突入し、第一ボイラー室に貫通し爆発した。艦の中央部セクションは破断し、艦主部と艦尾部は分離した。そして『エイベル』は急速に沈没し、5分後には残骸と生存者の他海上に何も残らなかった」

桜花が命中するとこのように強大な破壊力がありました。
アメリカのユージン・バレンシア海軍中尉は「その破壊力は、一般のカミカゼと比べて、比較にならない程大きく、それが効果的に使用された場合、米海軍に与えるであろう大きな損害は、ちょっと想像もできない位だった」と桜花について述懐しています。

命中しない場合でも、周囲もろとも吹き飛ばす爆発を起こし、例えば掃海駆逐艦ジェファーズの場合、桜花が右舷50mの距離に落下し爆発を起こしたのですが、その衝撃で甲板が破損し補修基地に退却しなければならなくなりました。
50m離れていてもそれだけの衝撃があったのです。

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米空母エセックスに特攻機が命中したところ

しかし、この桜花での攻撃には大きな問題がありました。
先述したように桜花は一式陸攻という大型飛行機の下に吊り下げて戦地まで運ばなければなりません。
ただでさえ一式陸攻は重く速力がない、いわば鈍牛のような航空機でしたので更にそれに2tもの桜花を吊り下げていればいかに遅く身動きが取れないか想像がつきます。
そのため、戦地に到着する前にアメリカのレーダーで補足され敵機に撃墜されることが多かったのです。

初めて桜花の攻撃を指揮した721飛行隊長の野中五郎少佐は航空戦の経験が豊富でしたが、この作戦がいかに困難であったか立案段階から分かっていたそうです。
べらんめぇ調の口調で兵士からも人望が厚かった野中五郎少佐も昭和20年3月21日にアメリカの戦闘機グラマンに撃墜されました。
その様子はYoutubeにもアップされていています。
グラマンに後尾を付かれ一式陸攻が必死に逃げようとしている様子が分かります。
最後は右の翼が射撃によって折られ下方に墜落していきました。

自分の命を祖国のために特攻で捧げようと決意を固めた兵士達が戦地に向かう途中で撃墜されて自分の本来の死に場所を得られないその無念、悔しさはいかほどであったか察するに余りあります。

急降下突撃という特殊な戦法であったため、その訓練もまさに命がけでした。
訓練では高度3000mまで上昇したところから切り離され、無事に着陸しなければなりません。
ブレーキもなく時速200kmの高速で着陸するため、その訓練で命を落した兵士や一般人を巻き込んでしまった事故などもありました。
その特殊性から訓練は1回限りで、その訓練で無事着地成功した者は次は本番を迎えることになったのでした。

実際の戦闘では6000mの高所で、母機である一式陸攻の床の搭乗口を空け、下に吊り下げられている桜花に乗り込むのです。
桜花の風防を2・3回蹴っ飛ばし、乗り込んでも落ちないことを確認した上で強風の中で風防を開け上から乗り込みます。
桜花を吊り下げている懸吊機は自動で外れるものではなく、何かで破裂させて桜花を母機から切り離していたようです。

そうすると、桜花は重力で300m位自然落下します。
地面に吸い込まれるようにして落下している機内で、搭乗員は内臓が浮き出しそうになりながらその状況の中で操縦を開始するという離れ技が必要でした。

6000mの飛行中の航空機から別の機に乗り移るなんていうのはハリウッド映画のスタントマン並みの胆力と運動神経が必要でしょう。

昭和20年3月21日から6月22日までに桜花の出撃は10回ありました。
桜花は75機、それを運搬する一式陸攻は78機、合計153機、その内帰還しなかったのは桜花56機、一式陸攻52機、合計108機でした。
戦死した搭乗員数は桜花隊が56人、陸攻隊が372人でした。

それに対して成果は文献によりまちまちで定かではありませんが、犠牲に見合う程の成果はほとんどなかったと言って良いようです。
それは実際に敵艦近くまで辿り着けなかったという理由が大きかったためです。

桜花での攻撃が開始された3月21日の5日後にアメリカは沖縄本島に上陸しました。
日本軍はそこから怒涛の如く特攻隊による攻撃を行い、アメリカ軍を震撼させました。
その様子はまた機会があればお伝えするかもしれません。

私はこうして近い先祖が戦ったことを風化させてはいけないという思いでこの記事を書いています。
私は戦争を賛美している訳ではありません。
むしろ、一般の方々より平和を希求する思いは強いのではないかと思っていますし、日々平和を祈り続けています。

特攻で亡くなった兵士は日本を守りたい、日本を良い国にしたいという思いが強かったのです。
特攻の英霊達は「俺は死ぬけど、後は頼んだぞ。」という思いを抱き突撃していったはずです。

桜花での訓練を経験しながら、終戦を迎え出番がなかった松林重雄さん(90歳)はこう語っています。

「やっぱり、死んだ人に申し訳ない。うしろめたいですよ。今の日本を見ていると、特にそう思う。このざまは何だ、こんなはずじゃなかった、と。」

私も松林さんのお気持ちは少しは分かるような気がします。
松林さんのような生き証人ももうすぐいなくなってしまう・・・今の日本に必要なのにとても残念なことです。

特攻で亡くなる死に方をよく「散華した」と言います。
桜の花の様に儚く(はかなく)南の海に散っていったからです。
そうした多くの若者達の献身的犠牲が礎になって現代の平和が存続していることを忘れてはなりません。

〔参考文献〕

「世界が語る神風特別攻撃隊」(吉本貞昭/ハート出版)


「太平洋戦争 最後の証言」(門田隆将/小学館)