2015年3月2日に戦艦武蔵がフィリピンのシブヤン海1000メートルの深海で沈没しているところを、マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏によって発見されました。
戦艦武蔵は沈没地点を調査しても見つからず、完全に沈まない状態で海中を漂っているのではないかという噂までありました。
戦後70年々の時を経て発見され、元乗組員は「運命的なものを感じる」と語ったとのことです。
戦艦武蔵の同型艦が戦艦大和です。
戦艦大和は79年前の今日、1945年4月7日に沖縄、坊ノ岬沖海戦で沈没しました。
この記事を読まれる前に前回寄稿した「現代日本人へのメッセージ①『人、虎孔裡 (じん、ここうり) に墜つ』」を読んでみてください。
その方が、この記事に深みが出ることでしょう。
戦艦大和は日本が国家の威信をかけて建造した戦艦で、当時世界最強と言われていました。
その名は現代に至るまで有名で、歴史に疎い人でも戦艦大和の名前は知っていると思います。
日本がいかに大和に力を注いで来たかは建造費からも一目瞭然です。
大和の建造費は当時の国家予算の3%に相当しました。
たった1艦で国家予算の3%とは・・・それにかける意気込みたるや凄いものです。
建造期間は7年、延べ169万人もの人が動員されたまさに国家プロジェクトと言っても過言ではありません。
当時の仮想敵国はアメリカであり、物量共に日本を上回る軍事力を持っており、それに対し日本は攻撃力・防御力共に史上最強となる質で対抗しようと考えました。
大和の概要は次の通りです。
(出典 wikipedia)
・全長263メートル(東京ドームの直径244m)
・高さ54メートル(13階建てビル相当)
・速力27ノット(時速50km)
・出力15万3553馬力(ジェット旅客機は約10万馬力)
・基準排水量64000t(それまでに造られた超弩級戦艦でも4万tクラス、その1.5倍もあった)
戦艦大和の前方甲板に装備された46cm主砲は戦艦大和の象徴とも言えるものです。
46㎝主砲は当時史上最大の大型径砲で主砲塔の重量だけで2700tもあり、それだけで駆逐艦の基準排水量に匹敵する程のものでした。
その主砲から繰り出される砲弾46cm砲弾は普通乗用車一台分もの重さがありましたが、それでも主砲の射程距離は42kmにも及びました。(東京タワーから鎌倉に届く位の距離!)
30㎞先にある40cmの装甲を貫通させる程の圧倒的パワーを誇りました。
この主砲は現代に至るまで世界最大の艦戴砲です。
防御力についていえば喫水線部で41cmの装甲を備え、当時としては高度な対空防御も装備されていました。
まさに日本の英知を結集した空前絶後の戦艦だったのです。
その大和ですが、実戦では幾つかの戦場に派遣されましたが、建造された背景とは裏腹に華々しい活躍はありませんでした。
なぜなら、大和が完成した頃には海戦の方法が戦艦同士の艦隊決戦ではなく、空母と戦闘機による空中戦に変化していたためです。
日本は1941年12月のマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の不沈艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを陸上攻撃機85機であっという間に撃沈し、イギリスに大きな衝撃を与えたことがありました。
プリンス・オブ・ウェールズは皇太子の名を冠した戦艦で、イギリスの威信をかけて建造した戦艦です。
当時世界最強と言われていたこの戦艦が日本の航空機の攻撃によって沈没したため、チャーチルにして「あの戦争においてあれ程の衝撃を受けたことがない」と言わしめたのです。
それまでは作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできないというのが常識でしたが、それを日本が覆したのです。
皮肉にも日本が艦隊同士の海戦という手法にピリオドを打たせたのにも関わらず、日本は大和という巨大戦艦を使わざるを得なかった訳です。
その様な背景があったため大和は有効に使われることなく時は経過し、活躍しないで浮かんでいたため「大和ホテル」と揶揄(やゆ)されたりしました。
しかし、大東亜戦争の戦況は次第に悪化の一途を辿り、日本連合艦隊は海戦での敗北を重ねたため制海権・制空権はアメリカの手に渡ってゆきました。
そして1945年4月1日にアメリカ軍は沖縄に上陸して来ました。
本来アメリカは沖縄上陸を3月1日に予定していましたが、硫黄島の栗林兵団の頑強な抵抗によって計画は一ヶ月遅延となっていました。
硫黄島の激戦の様子はクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」に詳しいです。
本格的な沖縄侵攻を確認した日本連合艦隊は3月26日に天一号作戦を発動しました。
それは陸海軍全兵力を挙げての特攻であり、その魁(さきがけ)としてこれまで前線に出ることがなかった大和にも遂に出撃命令が降りたのでした。
4月1日から6月22日まで82日間に渡って繰り広げられた沖縄戦は、イギリス首相のチャーチルが「軍事史上最も苛烈な戦い」と言った程の大激戦でした。(当事者である現代の日本人はほぼ知らない)
その口火を切ったのが大和の出撃となった菊水作戦であり、大和をはじめとした第二艦隊第一遊撃部隊(戦艦1、軽巡1、駆逐艦8)は沖縄に突入して敵艦隊を撃滅し、そのまま沖縄本土に座礁、浮き砲台として日本陸戦部隊を支援するというものでした。
しかし、この当時、制海権だけではなく制空権もなく、更にこの作戦には艦隊を護衛する日本軍機は付けられませんでした。
沖縄に向かえば途中でアメリカの戦闘機による攻撃を受けてすぐに沈没してしまうことは火を見るより明白でした。
従って、この作戦は明らかに無謀で勝ち目は全くなかったのです。
これは事実上の戦艦による特攻でありました。
この作戦の司令長官は伊藤整一(最終階級は大将)で、作戦を下命された時に断固反対しました。
しかし、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将から「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言われると「そうか、それならわかった」と即座に承諾し、大和と運命を共にする覚悟を固めました。
大和は獅子奮迅の戦いをする中で見事な死に花を咲かすのが役目だったとわかっていたのでしょう。
伊藤整一司令長官は遊興好きが多い当時の海軍軍人にしては珍しく愛妻家で、残される妻に次の様な遺書を残していました。
「此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候。
此の期に臨み 顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにて、また私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時、親愛なる御前様に後事を托して何等の憂なきは此の上もなき仕合と衷心より感謝致居候。
お前様は私の今の心境をよく御了解なるべく、私は最後まで喜んで居たと思はれなば、お前様の余生の淋しさを幾分にもやはらげる事と存候。
心から御前様の幸福を祈りつつ。
四月五日
いとしき最愛のちとせどの 整一」
伊藤整一司令長官の息子叡(あきら)中尉は、父が逝った後沖縄への神風特別攻撃隊として零戦で沖縄の海に散華しています。
家族2人を沖縄の海で亡くした伊藤整一司令長官の奥様のご心痛はいか程であったことでしょう。
さて、特攻ということを知った乗組員の様子は「wikipedia」にはこの様に書かれています。
「命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、『本作戦は特攻作戦である』と初めて伝えられた。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、『よしやってやろう』『武蔵の仇を討とう』と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。」
これまでの通常の航空機による特攻は出撃前に当然ながら分かっていますが、この時は乗った船の上で特攻、つまり帰ることはないと告げられた訳です。
生き残った乗組員の話では、それを聞いた時、緊迫が走り皆顔が青ざめたと言います。
それでも、生きては帰れないということはあらかじめわかっていました。
ちょうど4月7日頃は桜は満開を迎えています。
乗組員たちは乗艦前に「これを見るのは最後かもしれない」と万感の思いで咲き誇る桜を見、母国への思いを熱くしていたのではないでしょうか。
乗組員の士気は盛んで、3332名が沖縄の海へと出航しました。
日本の第二艦隊第一遊撃部隊に対するアメリカは新鋭空母12隻、艦戴機800機の圧倒的な戦力で迎え撃ちました。
大和は鹿児島の大隅半島の先を越えて東シナ海に入ってすぐ(4月7日11:07)にアメリカのレーダーに捕捉されました。
アメリカは大和を沈めるということの意味と日本に与えるインパクトを理解していました。
そして、大和を完全に沈めるべく、簡単に日本本土に引き返せないところまでおびき出そうとしていました。
そのため、大和をレーダーで捕捉していて潜水艦からの攻撃も可能だったにも関わらず、軽傷で引き帰られてはかなわぬと攻撃を控えていたのです。
大和に襲い掛かったのは第一次・第二次攻撃合わせて328機の航空部隊でした。
その日は厚い雲に覆われており、その間隙を縫って出現するアメリカ航空機に対し対空砲火の照準を合わせるのは困難な状況でした。
アメリカの爆撃により炎上する大和 (出典 wikipedia)
アメリカの作戦は左舷に魚雷を集中させることで、魚雷を被弾し続けた大和の艦内には大量の海水が浸水しました。
大和はバランスを保つために右舷の注水区画へ海水を流入させ転覆を堪えました。
大和は耐えに耐えましたが一方的な展開でした。
多勢に無勢、大和は応戦むなしく11以上とも言われる爆弾と、20以上と言われる魚雷を受け遂に航行不能になりました。
午後2時10分頃、動けなくなった大和にアメリカの攻撃機は決定的となる魚雷を左舷に打ち込みました。
それが致命傷となり、やがて艦の傾斜が35度を越えました。
そして、総員退艦命令が出た直後、弾薬庫に誘爆が起こり巨大な火柱が昇りました。
大和はその爆発で艦が二つに分断され、沖縄の海に沈んでいったのでした。
大和の乗組員は3332名、その内生還したのはわずか276名でした。
それが79年前の今日の出来事です。
昭和天皇が戦を収めてくれたお陰で一億総特攻とはなりませんでしたが、護国のために、愛する人のために、勝ち目のない戦いを挑み、華々しく散っていく武士道的な死に様を見せることは、一つの強烈なメッセージとなります。
命より大切なもの・・・それは民族の誇りであり、生き様であり、大和魂であります。
大和は死してそれを後世に伝えようとしていたのではないでしょうか。
自分たちはここで果てるが、その死に様をメッセージに後世へ皇国の再建を託したのです。
今の日本人は悲しいかなそれを受け取れているのか、首肯しかねるところではあります。
最後に・・・国を守るために沖縄の海に散華した多くの英霊に謹んで感謝と、ご冥福をお祈りする次第です。
(参考文献)
「戦艦大和のしくみ」(新星出版社)