実川上人との那智山中での修行

実川上人の修行場は、那智の滝のほとりにある洞窟でした。
思ったより小さな洞窟で、熊蔵は初めて見た時に拍子抜けしました。
そして、その日からそこで実川上人と生活することになったのです。

最初の2か月は水汲みや薪拾いなどの雑用で、修行らしい修行はなく、有り余る程の時間を持て余し、「こんなところに来るんじゃなかった」と嘆いていました。

食べ物もロクなものがなく、そば粉を練った味のないものが主食です。
最初は物足りなかったものの、続けていく内に腹も余り空かなくなり、空いた時にはそのそば粉の食べ物が美味しく感じられる様になりました。

折に触れ九字を切る実川上人の様子を見ている内に、見よう見まねで九字の作法を習得しました。

修行を始めるに当たり、最初に特に何もしないというのは、心身の浄化の期間に相当します。
里の食べ物による穢れや思考法など、穢れたものや不要なものを浄化し、溜め込んできた固定観念を空にしなければ、新しい教えは入りません。


やがて、熊蔵は初めての行を課せられました。

「小僧、では修行を始めるぞ。」

「まずは吸う息を腹の底に入れよ。吐く息を腹の底から出せ。尻を地に押し付けて軽々しく身体を動かすな。」

と課せられました。

熊蔵は2時間程じっとこらえていましたが、身体はじっと動かさなくても、集中力が切れ心があっちこっちに動き定まらなくなってきました。

すると、実川上人は、大きな声で

「こらっ、よそ見するな!」

とたしなめたのでした。

心に雑念が浮かぶ度に、師匠に怒鳴られるので熊蔵はすっかり縮み上がってしまいました。
それでも一心不乱にやっていると、その内に心も定まってきたのでした。

しばらくすると師匠はこう言いました。

「これからは大事な修行だぞ。今夜ワシが寝ているのを見て、寝息の数を数えるのじゃ。」

最初は夜が深まるにつれ睡魔が強くなり、寝落ちする度に師の寝息を見失ってしまいました。
その度に師匠には怒られてしまったのですが、それもその内にクリアすることができました。

次に言われたのは、

「小僧、今度は自分の寝息を数えるのじゃ。寝ながらしっかり数えるのじゃ。」

「寝ながら寝息を数えるなんて、できるわけないじゃないか!?」「一体、どうするんだ!?」と、熊蔵は師の指示内容が理解できずいぶかしく思うのでしたが、それも日が経つにつれマスターすることができました。

そして、修行の中で最も厳しいものが滝行でした。
特に冬場の滝行は身がガクガクと震え、強烈に差し込む冷気が全身に染み渡り割れそうになります。
滝に入る前に、実川上人が気合をかけますが、それでもその寒さは筆舌に尽くしがたいものでした。

熊蔵は中学生の身体ですから、滝から拡がる水圧も強大に感じられ前進することも困難な状況で、師の実川上人につかまって流されない様に付いて行くのがやっとのことでした。

余りの凍てつく寒さに手足に霜焼けができ、皮膚が荒れてしまうこともありました。
師の実川上人は、

「そのようになるのは、里の食べ物による毒がまだ身体に残って血が汚れているからなるのだ。血が綺麗になってくればその様なことにはならなくなる。」

と教え、傷む部位に気を送ってくれたのでした。

確かに、しばらくすると血液が浄化されたのか、霜焼けに苦しむことはパッタリなくなりました。

気持ちを高めて行に臨むも、余りの寒さに気が遠くなり失神してしまうことあり、その度に実川上人の気合で意識が戻るのでした。

そんなことを繰り返し一向に行が進みません。
己の無力感や虚しさが腹立たしくなり、ついに熊蔵は(かたわ)らの小刀を手に取り、自害しようと腹に突き刺しました。

「小僧!何してる!!」

腹に突き刺さった小刀から「ブシュッツ!!」と鮮血が飛び散りるやいなや、咄嗟(とっさ)に反応した実川上人が制止しようとすると、怒りが暴発した熊蔵は今度は師を殺めようと刃物を師に向けてきました。

実川上人の気合一閃で、小刀を落とされ、我に返った熊蔵は申し訳なさと悔しさに肩を落とすのでした。

しかし、実川上人は

「それだけの気持ちがあれば、行は成功するだろう。よきかな、よきかな」

と満足げな表情を浮かべていました。

そして、その後滝行にも順応し、高度な水行もできる様になりました。