ご神木プージャの炎
9月18日(土)22時~約40分間恒例のご神木プージャを執り行いました。
いつもご参加いただいている方、初めてご参加いただいた方、ありがとうございます。
師匠共々厚くお礼申し上げます。
私たちは世事に忙殺されていると、自身の人生について思いを馳せることが少なくなります。
私自身もそうならないよう戒めているところです。
私は泳ぎ続けないと死んでしまうサメのように、性格的に常に仕事などに没頭し走り続けていないと満足しないところがあります。
しかし、本来それは霊性修行者の態度ではないのです。
忙しさの程度は人それぞれ違うにせよ、日々やらなければならない仕事や雑事に追われていると、何を考えることもなく1日が終わってしまうからです。
そのようにして、1日1日が経っていくと、気が付くと1年・3年・5年ととても長い時間が経っていたということにもなりかねません。
それを繰り返していくうちに、いつの間にか人の一生は終わっていくのです。
長い人生も終わってみるとまるで夢をみているかのように思えるようです。
死ぬ間際には、自身の人生を夢の如く例える人は珍しくありません。
それは有名な戦国武将の辞世の句にも表れています。
〇豊臣秀吉/享年61才 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢」 (意訳) 露が儚く消えていくように、私の命も消えようとしている。 一生を振り返ってみれば、全ては夢の中で夢を見ているような儚いものであったことよ 【出典】https://www.10000nen.com/media/21929/ 〇織田信長/享年49才 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生をうけ滅せぬ者のあるべきか」 (意訳) 人の世の50年間は天界の時間と比較すれば夢幻のように儚いものだ。(幸若舞「敦盛」の一節) ※本能寺の変で幸若「敦盛」を舞ってから自害したと伝えられています。 〇上杉謙信/享年49才 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」 (意訳) 人生とは、一時の夢を見ているようなもの。栄耀栄華も、酒を飲んでいる間の戯れのようなもの 【出典】https://www.10000nen.com/media/24198/ |
生きるか死ぬかの乱世を生き切った戦国武将の人生は、私たちの人生より余程濃厚で激動の人生であったと言えるでしょう。
そのような人生を渡った3氏が共に人生を夢と例えたのは、過酷な生存競争の中で人生の真理を会得していたからかもしれません。
日常に振り回されて生きているとその最中にはわかりませんが、人生の幕引きにはまるで夢の様に思えるものです。
私たちは何とはなしに平均寿命まで生きると勝手に思いこんでいますが、それは幻想であると断言できます。
私も自身の気功治療の仕事を通じて、自分よりも若いお客様を数多く見送ってきました。
それから言えることは、人の人生はいつ幕が降りるかはまったくわからないということです。
人生のすべては移ろい行くもの。
ブッダも人生をその様に表現していました。
学生の時に古典でも習いましたが、鴨長明の方丈記には次の様な有名な一節があります。
ゆく河の流れは絶えずして しかも もとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて、 ひさしくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 |
【現代語訳】 川の流れは絶えることはなく。それでいてそこを流れる水は同じもとの水ではない。 川の淀みに浮かぶ水の泡(うたかた)は、一方では(形が)消え、また一方では(形が)できて、 そのまま長く止まっているという例はない 世の中に生きている人とその人たちの住処もまた、ちょうどこの川の流れや水の泡のようなものである。 |
鴨長明の言葉にある様に、人生は常に変化していて、留まっていることはありません。
人生はすべて諸行無常なのです。
家族関係もそう。
仲の良い夫婦やカップルもそう。
仲の良い友人関係やグループもそう。
仕事もそう。
この様なものは何か永続する様な錯覚を覚えますが、決して永久に続くものではなく、100%いつかは終わりが来ます。
人生には、楽しい時もあれば、悲しい時もありますが、それもいつまでも続くものではありません。
すべてのものは泡沫で、程なく消えていくのは必定です。
それが人生というものです。
死ぬ時にはすべての執着を断ち切ってあの世に旅立たなくてはなりません。
自分自身に問うていかがでしょうか?
「すべての執着を断ち切ることができますか?」
それが速やかにできなければ浄土(冥界)に向かうことはできません。
瞑想は、何のためにするのでしょうか?
リラックスのため?
エネルギーの浄化のため?
神とのつながりを深めるため?
確かにその様な意味合いもあるでしょう。
しかし、究極的な回答を言えば、死ぬための練習と言えます。
瞑想とは、文字通り「冥界(あの世)を想う」ことです。
瞑想をしながら、あの世に移る時の疑似練習をしているのです。
ほとんどすべての人にとって死は究極的に恐ろしい、この世における最悪のことです。
余りに恐ろしいためか、100%絶対誰の身にも起こるものでありながら、臭いものに蓋をするが如く、まったく考えることを忌避しています。
瞑想が上達していくと、死への恐怖が段々と薄らいでいきます。
そして、最後には死が何だか楽しみになっていきます。
ここは世間の考え方とはかなり違うものです。
ですので、瞑想の教師や僧侶が「死が怖い」と言っているなら、それは「まだまだ修行が足りん!」と喝を入れることができるでしょう。
死の訓練には、独りでゆったりとした時間を過ごす必要があります。
人と一緒にいては、死ぬ練習はすることはできません。
人は独りで生まれて来て、独りで死んでいくものだからです。
瞑想も基本的には独りで行うものです。
満天に輝く夜空の星々に神秘を感じ、独り眺めるのも死の疑似体験になります。
生生流転・・・
それが人生の真理です。
すべては移ろい行くものだから、いつでもそれを覚悟して生きることが大切なのです。
➡ 密教瞑想入門
今月のギフトの情報は発送(または手渡し)をもって代えさせていただきます。
さて、次回のご神木プージャは、
10月16日(土)の夜(22時頃)
開催します。
(ご神木の締め切りは、10月12日火曜日です。)
※締め切りを過ぎて到着したご神木は次月に回させていただきます。こちらから特に連絡は差し上げませんので、ゆとりをもってお届け願います。
自分の願いの成就を後押ししてほしい方は、下記のページ中にある。「ご神木プージャお申込みフォーム」に必要事項を入力し送信してください。
ご神木プージャは1本1000円以上のご喜捨(お布施)で承っています。
たくさんの方のご参加をお待ちしております。
「良いことが起こった!」「ご神木プージャのエネルギーが凄かった!!」など何でもご感想をお寄せください。皆さまのお声が励みとなり、次の力になっていきます。宜しくお願い致します。 |
※翌々月もご神木プージャにご参加をご希望される方は、次回のご神木を弊店に送られる際に「ご神木〇本希望」とメモを同封していただけると、来月のギフトと一緒にご神木もお送りさせていただきます。この場合、お客様のご神木発送の送料はかかりませんので、無駄な出費を抑えられます。できましたらこの様にお願い致します。