浜口熊嶽

超絶のスピリチュアル・ヒーラー列伝② 浜口熊嶽(ゆうがく)

浜口熊嶽
目 次

1.    キリストの再来と謳われた気合術師
2.    不思議な子供だった熊蔵
3.    実川上人との那智山中での修行
4.    実川上人の最期
5.    修行の要諦
6.    秘法の伝承

キリストの再来と謳われた気合術師

明治から昭和初期にかけて、霊界の扉が開いていたのか、幾人かの偉大な霊術家や宗教家が誕生し、一つの大きなムーブメントとなっていました。

それらの人物は今の時代と比べ、スケールが大きく、世間への影響力も多大でした。

そのような見えない力を駆使する霊術家や宗教家に、大衆は熱狂し、苦境に陥っている多くの人が藁にもすがる思いで救いを求め、そして救済されました。

現代の西洋医学とは異なる医療・医術が今よりも勢力を奮っており、また同時に大衆もそのような不思議な力に対しての受容力がありました。

もちろん、すべての人がそうあった訳ではありませんが、大衆のみならず著名人・政治家・マスコミ・スポーツ選手・皇族など特権階級等々の人達がこぞって見えない力に魅かれすがっていったのです。

浜口熊嶽の支持者の中には権力者も少なくなく、東条英機首相とは「オイ」「お前」の仲という程その実力は評価されていました。

その様なスケールの話は今ではなかなかありません。
明治から昭和初期に輩出された偉大な霊術家・霊能者・宗教家に比べるといかにも小粒です。
まあ、その分野に限らず全体的に現代人が小粒になっている感は否めませんが。

さて、その中でも特筆すべき霊術家の筆頭に挙げられるのは、他でもなく浜口ゆうがくでありましょう。
浜口熊嶽は敢えてカテゴリー化するとすれば、気合術師ということになります。
一閃いっせんの気合を「エイ、エイ、パア、パア!!!」とふるい、数々の病気を癒した人物です。
その気合術を熊嶽は「人心自由術」と謳っていました。

その治療力の高さは東西古今においても随一で、「キリストの再来」「セコンド釈迦」と謳われました。
日本のみならず朝鮮やアメリカなどの海外においても治療活動を展開し、治療を受けた人の数30万人を超えると言われます。
多い時には一日に1000人を超える患者を施術しました。

東京神田の錦輝館の様な大ホールを借り切って、そこを満員の人で埋め尽くし(入場できない人も多数)、裂帛(れっぱく)の気合で次々に病魔を(はら)っていったのです。

そのスゴ技によって、立てない人が立てるようになり、身体の各所の痛みが一瞬にして癒え、施術会場は歓喜と興奮の渦で沸き返りました。

中でも特に衆目を集めたのが次の様な技です。

  1. 虫歯取り
  2. 黒子(ほくろ)取り
  3. 乳出し

虫歯取りという技は、文字通り虫歯を抜く技です。
虫歯を抜くといっても、歯医者の様に麻酔をしてペンチで抜くものと違います。
虫歯に苦しむ患者を前に、

「どれ、どれが虫歯かの?」

と問い、虫歯を特定すると、

「待っておれ」

と精神統一をして、九字を切り、

「エイ、エイ、パア、パア!!!」

と気合を放つのです。

そうすると、当該の虫歯がズルっと歯ぐきから抜けて、ポロッと手に落ちて来る・・・
それはおそらく目の前で見ないとその衝撃は伝わりませんが、「信じられない・・・!!」と見るものを狐につままれた感覚に陥れたことでしょう。

しかも、患者は痛みもなく、血も出ない・・・
痛みがあった虫歯が抜けて、一瞬にして虫歯が治る(無くなる)のです。
これは百発百中だった様で、虫歯に悩む人が大挙して押し寄せたというのも(うなず)けます。

次にホクロ取りですが、これも文字通りホクロを取り去る技です。
よく顔に大きなホクロがある人がいます。
今では美容整形などで取ってしまうのでしょう。
そのホクロを、虫歯同様に裂帛(れっぱく)の気合をかけて取り去るのです。

「エイ、エイ、パア、パア!!!」

気合を受けた者は、その手にポトリとホクロが取れ落ちたのでした。

手を触れる訳でもなく、一体どのような原理でその現象が起こるのかわかりません。
会場には科学者や新聞記者も同席していましたが、到底それを見て仕組みを理解できるわけもなく、その解明を将来に託すしかありませんでした。
あれから既に70年以上経ちますが、今でもその現象を解明できることはないでしょう。

ホクロ同様にイボもいとも簡単に取れました。
ホクロもイボも当人しかわからない苦しみがあるものですが、その苦悩からたちまちに解放された訳です。

次に、乳出しです。
産後の乳の出が悪い婦人は今でも少なくありません。
今なら痛いのを我慢して()みほぐすことになるのでしょうか。

浜口熊嶽の場合は、そうではありません。
「乳の出が悪い」と悩みを訴える婦人に対して、「では、そこに出してみなさい」と指示をすると、婦人は一瞬恥ずかしさにためらいますが、浜口熊嶽の前に乳を(あら)わにします。

そこで、
「エイ、エイ、パア、パア!!!」

と気合をかけると、なんと不思議なことか、母乳がピューと3間(約90㎝)も飛び出すのです。
当然ながら、手を乳に触れたり、揉んだりすることもありません。
観衆はその様な現象を目前にし、驚愕と感動を覚えたことでしょう。

「もう、大丈夫」
「これでもう心配ない」

という偉丈夫浜口熊嶽の言葉に涙した者も少なくありません。

熊嶽は自身の技を「人心自由術」と名付け、その不思議を披露していました。
主に、治療の場で「人心自由術」の奇跡を顕しましたが、それだけではありませんでした。

九字を切り不動金縛りをかける技にも磨きがかかっていて、術をかけられればその場で身動きをとることがたちまちにできなくなりました。

面白いエピソードでは、力士の国見山と(たわむ)れの中で話が大きくなったことがありました。
2尺(=60㎝)の棍棒を持って、熊嶽の頭を殴れるかという騒動になったのです。

米俵1俵を片手で持ち上げる程の力自慢の力士ですから、本気でやれば頭蓋が割れて脳が飛び出します。

散々に挑発された国見山は

「おのれ、どうなってもしらんぞ!」

と怒りがこみあげてきて、熊嶽の坊主頭めがけて棍棒を振り下ろそうとしました。

その瞬間、熊嶽は九字を切り呪文を唱えると、振り上げた腕が固まってしまい、どうにも動かなくなってしまいました。

額に脂汗が浮かび、苦悶の表情で何とか動こうとしますが、身体はピクリともしません。
渾身の力を振り絞れば絞る程、身体は万力で固められた様になっていきます。

悠然と構えた熊嶽の姿を見た取り巻き連中は、ビックリ仰天!

「オオオォォォ!!!」

とぶったまげてしまい二の句が出なくなってしまいました。

この様な調子で不動金縛りを掛けられれば身動きが取れなくなったのです。
宴席で舞妓さんたちにおふざけでその技をかけて楽しむこともあり、舞妓さんは

「ホンマに動きませんわ」
「どないしましょ💦かなわんわ~」

と慌てふためいて、熊嶽はそれを見て喝采していました。

今の時代、この様な超絶の腕前を持つ治療家はいないでしょう。
しかし、このような傑物である浜口熊嶽も今の時代は遠い遥か昔の物語となり、その存在を知る人もほとんどいません。

この記事を書いている2020年秋の時点でwikipediaにもページがありません。
記録には三重県の3名士の一人としてミキモト真珠の創始者御木本幸吉と政治家尾崎行雄と並び顕彰されています。

彼の浜口熊嶽は一体どの様な活動をしていたのでしょうか?
その当時の新聞記事を紹介しましょう。

()の名を慕ふて彼の前に連なる幾百人の傷病人に、薬を飲ますでもなく、手を触れるでもなく、たつた一度の一喝が、アラ不思議!脚気(かっけ)を治し、ホクロを取除き、(ちんば)(※足を引き摺る者)を整形し、(いざり)(※足が不自由で立てないもの)を立たしめ、歯痛を止め、顔面の歪みを全治せしめる等、全快の喜びに浸るもの全世界押し並べて三十万人を下るまいといはるる程、全治者を健全な社会に送り出している。一部にはキリストの再来、一部には昭和の日蓮と讃へられる」


東京日日新聞

浜口熊嶽は豪放磊落(らいらく)人に対するに極めて平等なり偉大なる体躯(たいく)巡雷の如き音調

快活なる動作等は確かに術師としての必要機関なるべきか、彼と語る者自ら快感を覚えざるを得ず、施術場に於ける彼は更に快活にして殊に謹厳なり。

白衣白袴の装束に座に就き、護摩を焚き呪文を唱えおわりて受付の順番によりて施術に係る、種々雑多な患者の施術を記者は他目よそめも振らず注視せしが患者中にて現実の効験の見えしはチンバ(※足を引き摺る者)の癒りて立去りし者及び黒子ほくろや歯の抜けし事なりし又就中なかんづく衆目を騒がせしは乳の出ざる婦人が一二回の気合により二三間(※1間≒180㎝、3.6m~5.4m)も乳汁の飛び出せし事なりしこうして病気によりては治療不可能なりと認めし者には料金三十銭を返却し返らしむ、黒子ほくろ及歯の如き唯一回の気合にて痛みを感ぜずに転げ落つる事不思議なり記者は此施術の光景をて自ら天下一品と称するもあながち誇言にあらざるを認めたり、所謂いわゆる摩訶まか不思議は依然として摩訶不思議たり。  

明治四三・一二・七 東海新聞

快児浜口熊嶽=摩訶不思議の施術(ぶり)

快児浜口熊嶽は医学博士も心理学泰斗(たいと)も官も遂に不可解の判決を与えられた紀州長島ケ浜の漁夫の子浜口熊嶽(三四)は彼ら自らが如く摩訶不思議の疑団である九字を切り気合をかけ病者を癒し世間からは一時山師、妖僧、売僧(まいす)、香具師、大奸物(かんぶつ)と嘲罵冷笑をあびせられ七百四十余度警察へ召喚され四十七回法廷に立たされ(しか)も十九の歳から今日まで(かつ)て自己の確信を()げず終始一貫真言秘密摩訶不思議で押し通して居る彼れ熊嶽が此五日から我が埼玉支局所在地たる本庄町へ来て一般患者の施術をする事になった。 (中略)それから三十人目位の処で右頬に黒子(ほくろ)にある娘を施術して見る間に抜き取って(しま)い続いて虫歯を二人抜いてやった、其の軽業の様な不思議な事実を眼前に見ている患者等は勿論の事記者の如きさえ何だか狐に(つま)まれた様であった。最も不思議なのは決して患部に熊嶽の四股五体を触れしめず些の痛みなく虫歯を抜取り黒子(ほくろ)を取去る事である。


明治四十三年五月八日  上毛新聞

(上略)歯や黒子(ほくろ)が取れるのを見ては(まん)(ざら)馬鹿にできない。全く不思議である、イヤ、不思議でないのだろうが、今の学問で説明出来ぬ為に不思議なのであろう。(略)
モー十年も経ったら、或いはこの熊嶽の術も何の不思議でも無い様になるかも知れぬ(略)かくも浜口熊嶽は不思議な人間である。


横浜新聞 明治四十三年一月十二日

現代では西洋医学一辺倒ですから、新聞にこの様な代替療法を称賛する記事が載ることはほとんどありません。
載ったとしても「あやしい」「いかがわしい」と色眼鏡で見られるのが落ちです。

上記の様な有力紙にこの様に取り上げられているのは、まさに熊嶽の実力を裏付けるものと言えます。

新聞記事に「全快の喜びに浸るもの全世界押し並べて三十万人を下るまい」と書かれている様に、絶大な力を持ち、たくさんの人を救った熊嶽ですが、その人生は施術だけではなく、警察権力との闘いという一面もありました。
警察にしょっぴかれること700回余、裁判になったこと40回余、まさに行くところ必ず官憲が現れて連行される、その様なパターンだったのかもしれません。

救いを求め押し寄せている多くの人の中には、するどい目つきで様子を伺うあやしい一群が混じっていました。
そして、施術の最中おもむろに熊嶽のところに出て行き、「警察だ」と熊嶽を包囲しました。

その度に、

「わしは逃げも隠れもせん!どこにも行かん!この人たちの施術が終わるまで待っておれ!!」

と答え施術を続行しました。

700回以上も拘留され、40回以上も裁判に引きずり出され、やるせない思いや憤りはひとしおであったことでしょう。

「オレは何も悪いことをしていない!!」
「人助けをしていただけだ!!」

毎回熊嶽はその様に無実を訴え、そのすべての裁判で無罪を勝ち取りました。
警察権力は、医師免許もないのに医療行為をしている、また不思議な技を使って大衆をたぶらかしているとみなし、怪僧熊嶽をつぶそうと執念を燃やし告発を続けました。

小学校を退学させられたという程の無学な熊嶽でありましたが、ほとほと嫌気がさしたのでしょう、明治法律大学(今の明治大学)の聴講生となり、岸本辰男(明治大学の創設者)に法学を学んでいました。

人生の終盤には、朝鮮やアメリカで7年間普及活動を進めますが、それも国内で叩かれることにうんざりしたのかもしれません。
霊気の創始者臼井(うすい)甕男(みかお)も活動の場を西洋に求めましたが、日本国内での活動に嫌気がさす様な事情があったのでしょうか。

無実を勝ち取る過程で、たくさんの証人を集めることもありましたし、判事のリウマチを法廷の場で治療しその効力を実証することもありました。

とにかく、明治以降は霊術など不可思議な力を持つ者を異端と排し、社会的に抹殺しようとしてきた歴史があります。


廃仏毀釈(きしゃく)があったり、修験道が禁止されたり、日本の伝統的な宗教は破壊されました。
科学教という一種の宗教を社会統治の柱に据えているので、その枠に入らないものは目障りなのでしょう。
当時程ではありませんが、弾圧の動きは今も続いていると言っても過言ではありません。

現代では熊嶽ほど派手に活動する者もいませんから、そこまで目の(かたき)にされることもありませんが、Google検索に出てこないとか、マスコミが不当に歪んだ情報を流すというのは今現在行われていることです。

気功でいえば、有名人が気功家の世話になると、「あやしい気功師に洗脳され・・・」(笑)という記事になって出て来ます。
今の時代、有名人や経営者などは気功などの見えない力を認めている人も少なくありませんし、利用している人も結構いますが、人目につかない様こっそり利用しているのが常です。