誰もが皆この世界を生きていく上で「自分」というものを持っています。
「あなたは誰ですか?」
と、問われれば「〇〇権兵衛です」という様に、「自分」に付いている名前で答えるでしょう。
では、「〇〇権兵衛」という名前が付いている「自分」とは一体何でしょうか?
または、個とは一体何でしょうか?
自分というものを考える時、ほとんどすべての人が肉体を思い浮かべます。
その肉体は、当然ながら他とは切り離された独立した存在としての肉体です。
この肉体の境界は皮膚という薄い膜によって定められます。
皮膚から外側は他、皮膚の内側は「自分」という様にです。
誰もが「自分」というものをこの皮膚の内側の肉体と捉え、その存続・生存のために四苦八苦して生きています。
そして、自分というものを肉体という「個」に規定するところがから、様々な苦しみが生まれてきます。
この肉体には意識があり、その中心は魂です。
意識があるから思考というものが生まれます。
または、感情も出て来ます。
頭の中に次々と無数に飛び交う思考、そして波の様にアップダウンする諸々の感情・・・これは意識があるが故に出て来るものです。
意識がなければ思考や感情は生まれません。
そして、肉体を「自分」と同一視するのと同じく、思考や感情を「自分」と同一視しています。
例えば、何か不安なことがあり、不安感が強く出てきている。
「あれ、どうなるんだろう・・・心配だな・・・」
「ああでもない、こうでもない・・・」
不安感とそれに伴うどうしようもない思考群が「自分」の前に現れ、その状況の中で不安感を「自分」のものと捉え、不安に苦しむ「自分」というものを認識します。
しかし、この思考や感情をよくよく考えてみると、果たしてどこまでが自分のものかという疑問が生じます。
昨日もあるお客様と次の様な話になりました。
「先日、ある会合に出ていたのですが、ふと『あっ、気持ち悪い』『倒れる!』と思ったのです。」
「その瞬間、隣の席の男性が椅子から転がり落ちて倒れました。」
「私はその時、隣の人の思考が入って来ていたのです。」
・・・と、この様な内容でした。
この人が感じた苦しさや思考は、隣席の男性のものでした。
私たちは、頭に脳という独立したコンピューターがあって、ネットワークに接続していないラップトップパソコンの如く考えています。
つまり、思考や感情は「自分」だけのものであると考えています。
しかし、実際には違います。
私たちの思考や感情は、「自分」という肉体に限定されたものではなく、ネットワークに接続したパソコンの様に、他の人の思考や感情が自分のコンピューター(脳)に入ってきます。
そして、外から入って来た思考や感情を「自分」の物と解釈し、行動に移します。
仲の良い親子や恋人、または霊性の師匠や弟子は、同時に同じことを考えたり、感じたりしています。
例えば、仲の良い恋人同士が「今、同じことを考えていたね!」と話をするのは珍しくないでしょう。
これはオーラというエネルギー場を共有しているから起こる現象です。
私たちの思考や感情はどこまでが「自分」のもので、どこからが外から来たものかわかりません。
思考と「自分」を同一化しているほとんどすべての人達は、その区別がつかないのです。
区別がつかない以前に、思考や感情が外部(ネットワーク)から入って来ることを知りません。
私がこうして「自分とは何か?」という記事を書いていますが、これも水野博友という脳から生み出されているものかどうかはわかりません。
ある時、パッとインスピレーションの様な形で圧縮された思考が入って来て、その情報をそんなに時間が経たない内に解凍し書き起こしておかないと再現できないのです。
水野博友が考え出したものか、それとも同じことを同時に考えている他の人がいるのか、そこはわかりません。
しかし、この世界の「場」というものを考えた時、この記事にある内容の情報を複数の人達が共有していると考えた方が妥当です。
だから、おそらく私と同じ意識の周波数帯にいる人達は、この情報を得ているのだと思います。
また、人間には、他の人の念や未浄化霊がエネルギー的に影響することもあります。というかよくあります。
霊が憑くと、その憑いた霊のパーソナリティや感情が肉体に乗り移ります。
そうなると、何だかこれまでの人とは違って見えたりします。
これまでそうでもなかったのに、急に食欲が出て来てガツガツ貪る様に食べる様になった・・・この類の現象がおきます。
目をよく見てみると、本来のその人と違って見えます。
霊視できる人が見れば、餓鬼の様な未浄化霊が憑いてその欲望を満たそうとしていると映るかもしれません。
私たちの脳というコンピューターは他とは切り離され独立したものではなく、他の人とのネットワークに接続されたコンピューターの様なものです。
だから、「自分」と思っていた物が、実は他から来る情報を「自分」のものとして解釈していたということも頻繁にあります。
他から来る情報とは、先に書いた他人や未浄化霊ものがそうです。
それ以外には、先祖の影響もあります。
それは意外にも小さくないもので、私たちはある特定の先祖が生きた人生パターンと同じ様な人生を過ごしたりしています。
だから、「自分」で考え判断して「自分」の人生を生きている様で、何のことはない先祖の人生の鋳型(パターン)を繰り返しているに過ぎなかったりします。
普通に生きていれば、
「自分」 = 「名前が付いている肉体」
の範囲に自己を規定します。
しかし、意識が高まってくると、
自分 = 「人間というネットワーク」
という様に外部まで広がっていきます。
そうなると、「人の苦しみは我が苦しみ」ということになるのです。
他の人が苦しんでいるのは、ほかっておけないという気持ちが高まってきます。
そして、もっと意識が高まって来ると、
自分 = 「神」
という範囲まで及んできます。
つまり、自分の思考の大半は神から来る情報ということになってきます。
修行が進んだ人や、霊性レベルが高い魂には、そうした高等な意識体からの情報が入って来てます。
最終的には、
自分 = 「全体(=この世界)」
と、同一視される様になるのでしょう。
そして、この世界を創っているものが、自分自身であることに気付くことでしょう。
頭で考えるのではなく、気付く、わかる。
その境地に至れば悟りなのです。