木曜日から日曜日まで山中の洞窟にほぼ籠って修行をしていたところです。
今は帰りのバスで原稿を書いています。
いつもながら数日ぶりに街に出てくると下界に降りてきた様な気分になります。
今回の行は、結論から言えばこれまでの中で最も厳しい行で、途中私は失神してしまいました。
金曜日の未明、苦行に耐えきれずトイレに向かう途中で失神し気を失って倒れてしまいましたが、間もなく正気を取り戻しました。
それには師匠も驚いた様で、「危なかったね。死ななくて良かった。」と振り返っていました。
私はその日は無理をせず横になって休養していました。
しかし、行果で言えば、師匠より現階梯の終了を告げられましたので、「良かった」と胸をなでおろしています。
他人との比較ではなく、過去の自分と比較し着実に成長が感じられるというのはやりがいのあるものです。
それがなければ、これ程辛い思いは我慢できないでしょう。
私のみならず修行仲間も同様に大変な思いをしていました。
今回は兄弟弟子だけではなく、師匠もまた私たちの業を負ってダウンしてしまいました。
奥伝レベルの高等な伝法では、師から弟子にパワーを与えるのに付随して、師は弟子の責任を負うことになります。
責任とは何でしょうか?
それは師が弟子に法力(パワー)を伝授して、「はい終わり」とはならず、気(エネルギー)のつながりができるため弟子の業の一部を引き受けることになります。
それはせっかく高い境地におられる師が弟子の業を引き受けることで師の更なる霊的成長も足止めを食うことになり、余程の愛がなければやれるものではありません。
霊性修行を魂というコップの水を綺麗にしていく作業に例えると、せっかく澄んで綺麗になっていたところに黒い水が混ざる様なものです。
だから、レベルの高いヒマラヤの聖者は弟子を生涯2~3人しか育てないといいます。
私の師匠も「こうなるから少人数でしか教えられないのだ」と昨夜つぶやいていました。
師匠は既に高齢でありますが、何歳まで生きられるかという話題が出た時、
「おれはこれ(伝法のこと)をやっているから長生きはできんと思うよ。」
と、おっしゃっていました。
まさに寿命を削って伝法をしてくれているのです。
霊性修行とはかくも厳しいものです。
しかし、霊性修行の階梯を昇っていくことは、神を感得する力も増していき、自分が行っていることに間違いがないという確信も得られるものです。
師匠が苦悶する姿を見ると本当に申し訳ないと思い、私はその分苦しんでいる人の助けにならなければと思わずにはいられません。
私も気(エネルギー)の伝授をして生徒の指導をしています。
私自身もやはり師匠ほどではないにせよ、生徒(私は弟子とは呼びません)の邪気を受けて疲弊します。
私が主宰する「サットサンガ(真理の集い)」という合同瞑想会の時は、その後の自己浄化をして帰宅するといつも深夜の1時頃になります。
現在の私の仕事は気功治療でお客様の苦痛を癒すことでありますが、もう一つ気功治療の生徒を育てることもあります。
生徒を育てることの意味を分かっているので、自分自身どう取り組んでいこうかと迷いが生じます。
今回の山の行で死線を彷徨っている時に、今生で自分がしなければならないことを神より告げられた感がありました。
今の私からすると突拍子もないことで、それについて全く知らないし実現不可能としか思えないことです。
「だいたいそれに必要なお金はどこから出てくるのさ!」という気持ちです。
今の仕事とは全く関連がない事業なので、やれと言われてすぐできることではなく、時間をかけて準備をしなければならないことです。
前職のサラリーマンだった時、現在の気功治療の仕事に転職するまでに4年程時間を要しています。
今回はもし話が進むのであればそれ以上の時間が必要になるでしょう。
気功治療は事業の柱の一つになっていき、重要なもう一つの柱ができていくのかもしれません。
どうなるか先のことはさっぱりわかりませんが、すべては神にお任せで、その気になって一生懸命に生きていけば自然に環境が整っていくはずです。