修行は瞑想中だけではない、実生活が修行の場となる

霊性修行というと、瞑想をすることが修行だと考えます。

確かに、教師の私がマントラを伝授し、それを一定期間唱え瞑想するように課題を出します。

それを実行することが修行です。

初心者には、毎日瞑想をするのが苦痛と感じ、怠け心を克己することが修行と思えるでしょう。

確かに瞑想を継続することが修行ですが、毎日座って行う瞑想だけが修行ということではありません。

例えば、密教瞑想講座の初伝では五大元素の行を授けます。

火の行でいうと、怒りや嫉妬やこだわりなどネガティブな執着性のあるエネルギーと関係があります。

火の行は、自身の中に潜むそのようなエネルギーを浄化していく作業となります。

火のマントラのエネルギーを伝授し、日々火のマントラ瞑想を継続していくと、そのエネルギーが相応する現実を創造します。

自身の中にイライラや怒りが潜んでいると、ちょうどその瞑想期間中にそれと向き合わざるをえない現実に直面します。

例えば、会社の同僚に理不尽に怒られるなどという現実です。

相手の怒りやそれに反応する自分自身の怒りにフォーカスし、怒りの感情を体験することになります。

現実の中で直面するそのような出来事はかなりのストレスになり、心身を消耗することになるでしょう。

あまりに苦しすぎて不眠や下痢になるかもしれません。

それはかなり苦しく辛い体験です。

スワミ・カレスワーラはそのような現象のことをイリュージョン(幻想)と表現しました。

あたかも実際に起こっているかのような現実も、脳が体験している幻想であると考えた訳です。

それが現実の生活の中で起こる修行です。

むしろ、生活の中で修行として体験する現実の方が、座って瞑想することより遙かに辛いものになることでしょう。

苦しみ抜いて向き合っていくと、さまざまな小さな気付きを得ます。

気付きを得たら、それで今回の課題はクリアとなります。

そうした一歩一歩の歩みが、魂の成長になっていくのです。

火の行をやっても自身にあまり怒りのエネルギーがない人は、怒りを感じるような現実は現れないかもしれません。

そのような人は、地の行をやったときにひどい悲しみや喪失感・孤独感を体験することになるかもしれません。

人それぞれ五大元素のバランスは異なりますし、修行によって体験することは違う訳です。

「そんな辛い現実は体験したくない・・・」

と恐れを抱く人もいるかもしれません。

しかし、修行中に体験するストレスになるような辛い現実は、そこで体験しなければ将来より大きな障害となって現れてくるに違いありません。

修行期間中に否応なしに体験させられるのがある意味神の恵みでありがたいのかもしれません。

私たちの魂や心身のエネルギーには、さまざまなネガティブなエネルギーが混在しています。

自身の過去世や、生まれてから現在までにこしらえたネガティブな感情のエネルギー

家系に引き継がれる因縁というネガティブなエネルギー

そのようなネガティブなエネルギーはいずれの機会に向き合って浄化しなければならないのです。

それを敢えて表出させ、修行として体験していくのが、霊性修行であります。

それはかなり厳しい道のりとなります。

かつて私の師はこう言いました。

「霊性修行の階梯を昇っていく中で、いずれ絶対に失いたくない大切なものを失うことになるだろう」

それを師匠から言われた時に、私は戦慄しました。

将来一体どれだけの恐ろしいことが起こるのだろうか?

それは執着を捨てきれるかというテストです。

私は2年前に妻を亡くしましたが、その時に思い出したのはかつて師が語ったその言葉でした。

一般的に、伴侶を亡くすことは最大のストレスになると言われています。

伴侶が他界すれば、その悲しみを癒やすのに年単位の月日が必要になります。

私は突然の妻の死を体験し、奈落の底に落ち、地獄の底を這うような気持ちを味わいました。

「これはダメだ、立ち直るのに相当期間が必要だ」と考え、自店のホームページに「修行のため2ヶ月間休業します」と臨時休業の表示を出しました。

しかし、私はそこから割と早く回復し、2週間の休業後、何事もなかったかのように仕事を再開しました。

その意味で私は死別の苦しみが他人と比べ軽かったと思います。

それは私が薄情な男だったからということではありません。

物事に執着心をもたないというそれまでの修行の成果だったと言えるでしょう。

絶対に失いたくない大切なものを失う覚悟はありますか?

最悪は命すら失うかもしれない状況でも、泰然自若として受け入れることができるでしょうか?

昔の武士は、名誉を守るためにその時が来たら自分で腹を切りました。

武士が腰に差している2本の刀は、1本は敵を切るため、もう1本は自分を切るためのものです。

廉恥心の強いかつての日本人は、自身や家の誉れを守るために、いつでも命を捨てる覚悟を持って生きていました。

私はヒマラヤで修行をした時に、ホーリーネームという出家者が名乗る名前を聖者から受領しました。

それは、日本語で「無執着の王」というものでした。

なぜ、聖者が私にそう名付けたのかはわかりません。

その名前を受けた時、「どうしてなんだろう?」と疑問でしたが、今ではその意味がよくわかります。

執着が強いほど、魂は重いエネルギーになり、軽くなるほど悟りに近くなると思っています。

生徒さんの修行の度合いを診る時は、当然ながらその人のエネルギーを診ますが、どれだけの執着を持って生きているかも一つの指標になります。

物事にこだわりすぎているのは、現代社会ではある意味心が強いようにとられよく見られますが、霊性的に見るとそれは我欲が強くバランスを欠いているとマイナスに評価されます。

さて、あなたはこれから自身が創り出すイリュージョン(幻想)をどう乗り越えるでしょうか?

霊性修行は座っている時間だけではありません。

瞑想中に得られたエネルギーでさまざまな関連する出来事が創出され、それを体験することが真の修行です。

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