神とは何か?それは力である。そして、人は力の結晶である

現代では、神や仏というと宗教臭いと嫌悪される風潮があり、その存在すらも否定する人も少なくありません。

こうした神も仏もないとする、人心が荒廃した世界を、末法の世といいます。
世も末ということですね。
自分たちが何者であるかも知らず、肉体の快楽・欲求を追求しエゴを満たすためだけの一生を送っている人が相当多いのが、末法の世の特徴です。

では、そのキナ臭いと忌避される神というのは一体なんでしょう?
ただ単に心が弱った人がすがるための対象に過ぎないのでしょうか?

神といえば、信仰の対象として神像・仏像で作られる様々な神仏があります。
仏教にも観音菩薩・不動明王・大黒天・弁財天・・・等々がありますし、キリスト教ではジーザスが磔刑になっている像が祀られます。

それらはもちろん神であるのですが、神とはそれらがすべてではありません。

この様な人間に近い形で現れてくれる神は、人間界に近い世界の神といえます。
実際には、神界も多層構造になっていて、上には上があります。
それは虫やアメーバが人間界を理解できない様に、人が神の世界を達観するのも無理な話です。

神典「日月神示」には

上つ巻 第二十一帖
世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ

というお筆先があります。
ここには神々にはさらに高次の大神(世の元の神)のことはわからないということが示されています。

仏像・神像で現れる神々は、人が信仰しやすいように現れた神であるということができます。

さらに高次の神ということになると、人の形をとりません。
なぜなら、元々神はエネルギー体で、肉体を持っている訳ではないからです。

では、更に高次の神とは一体何でしょうか?
この答えには、いくつかの表現ができますが、私たちに分かりやすい表現の一つが「力」であります。

神とは、世の中のものすべてを動かす力、動きある万物の中に潜み、それを稼働させるエネルギーであります。

人の身体も神の力(これを気といいます)が巡っているから、すべての細胞・血液・臓器・神経・筋や筋などが動くのです。
私たちは自分の意思と関係なく、身体が勝手に動いて生きてくれますが、これも力が動いているからそうなる不可思議な御業(みわざ)のです。

心臓を動かす時、胆汁を出す時、ホルモンを出す時・・・等々、それをそれぞれ意識して動かす人はいません。
自律神経という言葉にある様に、人体の機能すべてが自律し、神の力が流れて動かしてくれている訳です。

そして、身勝手な生き方・考え方をして宇宙のリズムと調和しなくなると、力はうまく流れなくなり、そこに邪気という澱(よど)みが生じ、病気が発現します。

さらに人体に力が流れなくなると、やがて死という状態になります。

現代西洋医学は、病気を状態で把握しようとします。
異常が生じている生理現象をミクロに分類して病名を付け、それを感じなくするために薬を使います。

一方、その異常な生理現象である病気のその元の力(気)を把握し、病気になるに至った力の働きは何であるのかという観点から疾病を探り解決に導くのが、東洋医学です。

ミクロの静止状態を捉えるか、それがそうなった「背景の動き=力」を診るか、洋の東西の医学の大まかな違いはそこにあります。

この様に、人体の力を例にあげましたが、力が働いているのは人体だけではありません。

海洋の動き
天気の動き
火山の動き
地球の自転・公転の動き
星々の動き
太陽の動き
星雲の動き
宇宙の動き

それらのすべてに力が働いていて、ダイナミックに活動しています。
それらもすべてやがて死という消滅の時を迎えますが、人の一生からすれば実に永遠とも言える壮大な時間を要するので、まるで止まっているかのように見えます。
しかし、実際には力がすべてに作用していて、その結果として「誕生➡成長➡消滅」という大きなサイクルで動いています。

アリンコや成虫になって一日で死ぬ儚(はかな)いウスバカゲロウが、人の80余年の一生を理解できるかといえばできないのと同じで、所詮人は天体や宇宙の一生を知り得ることはありません。

この世界のすべてのものに生まれた時があり、
この世界のすべてのものが成長する時があり、
この世界のすべてのものに死が訪れる時があります。

死はひとつの流れであり、惨めなことでも敗北でも何でもありません。
死も生の一部であります。
死という滅びを免れるものはこの世界、宇宙に存在しません。
すべてのものに等しく死は訪れます。

宇宙の一切の構成要素に流れる力が、そうさせているのであって、「誕生➡成長➡死」というサイクルは、宇宙の根本の法則であります。

その3つを受け持つのがヒンズーでは、

誕生 ➡ ブラフマー神
成長 ➡ ヴィシュヌ神
死   ➡ シヴァ神

とされています。

これは力をわかりやすく分類しているだけです。

左からブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神

整理すると、

誕生はブラフマー神のエネルギー(力)
成長はヴィシュヌ神のエネルギー(力)
死はシヴァ神のエネルギー(力)

主にそれが働くということになります。

すべてに神(力)が働いていて、神(力)はこの世界に遍在しています。
重力もそうです。

重力は厳密には科学ではまだよく解明できないと言われていますが、重力も神の現れです。
重力がこの地球上すべてにかかっている様に、神はこの世界に遍在しています。
そして、重力(神)が時を支配しています。

それから考えられることは、私たち人間の中に流れる力は神そのものであり、私たちは神によって満たされていて、神によって動かされていると言うことができます。

つまり、私たちは第三次元という神の世界の構成要素でありながら、同時に神そのものであるということなのです。

最後に、ヒマラヤのカンチェンジュンガで悟りの境地に達した中村天風(玄洋社)の言葉を紹介して筆をおきます。

中村天風

私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも・・・
否、あらゆる全てのものに打ち克つ力だ。
そうだ
強い、強い、力の結晶だ。

力を神と置き換えて読むと良いでしょう。
「私は力だ」とは、私たちは宇宙の構成要素でありながら、宇宙の創造者であるという意味です。
それを知ることで、強い意志は運命を超越することができるのです。

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