時間は幻である

日々の生活で時計の時間を一日に何回も確認して、それに追われるようにやらなければならないことをこなしているのがほとんど全ての人の生き方です。

時間という共通のスケール(物差し)によって、流れゆく時間を計測していますので、時間は現実的に存在するものと認識しており、それを疑うこともありません。

しかし、本当のところはそうではなく、時間は幻なのです。

「時間は幻」というと何のことか分からない人はまるで分からないのだと思いますが、時間は自分の思考の産物であり、実際のところ他人と共有する時間(絶対時間といいます)が現実に存在するものではないのです。

過去というのを認識するのは今という場であり、未来のことを思うのは今という場で、それを認識する視点は常に今なのです。

だから今という場だけが真実であり、過去や未来はそこに同時に存在しているものというのが私の認識です。

実際には、今という時間の認識すらも幻であり、そのことは「時間の講義①共有の時間などない」で述べました。

時間だけではなく、空間も本当は存在していない。

「でも現実にあるのじゃないか。」と言われると確かにそう感じるのですが、それはこの3次元という場に限ってはということであり、脳が構築している仮想現実です。

私達は寝ている間に違う次元に移行したり(それを夢といいます)、またはドラッグや瞑想という形でこの3次元を抜け出したりすることが技術的に可能です。

私が毎日行っている遠隔療法も埼玉から日本全国の方を癒しています。

近年では世界中から遠隔療法の依頼が来るようになりました。

遠隔療法という空間・距離が関係ない・距離を超越したものがあるということを経験していますので、私には時間が存在していないというのも比較的認識しやすいのかもしれません。

今日は瞑想をしていたら深いレベルに入り、どうやら未来の出来事であろう光景にアクセスしました。

それは私がこうしたいと思っているものが見えて、「ああこのようにしてなるのだ」とその光景から改めて知ることができました。

これは空想か妄想か、その可能性もなきにしもあらずではありますが、自分の知らないことをそこから知ることができたということ、またその光景が白黒のものではなく、総天然色(カラー)で見えたということから、未来として存在しているものを今見たのだと自分で認識しています。

未来というストーリーは幾つもあるのだと思います。

ロールプレイングゲームのストーリーがソフトウェアにプログラムされているかのように、今という場に折りたたまれて存在しているのが未来なのでしょう。

その未来は私達が何を選択していくかによって異なるストーリーを展開させるものですから、決定的なものではありません。

選択する意識の波動によって、展開する未来が変わってきます。

人生は幾つもの選択の連続で、私が未来を見たと認識した光景はその選択肢の内の一つにすぎません。

時間の呪縛から逃れるためにまず何をすれば良いかというと、時間に追われないようにすることだと思います。

または「時間の常識」から逃れることです。

「時間の常識」から逃れることの一例としては、睡眠時間があります。

例えば8時間寝なければならないとか、6時間寝なければならないとか、人それぞれ自分自身の必要睡眠時間を設定していると思います。

それを満たしていなければ翌日眠くなるのではないかと思ったり、疲れが残っているのではないかと思ったりする傾向は誰しもあるのではないでしょうか。

こういったことを意識しないことが、「時間の常識」から逃れることです。

時間に追われて感情的にイライラしてしまうのも、考えてみれば一人相撲をとっているようなものに思えてしまいます。

「自分の年齢が○○才だから・・・△△しなければならない」というのも時間の呪縛に他なりません。

自分の可能性を自分自身で閉ざしてしまうのはもったいないことです。

私の場合、常に本当に存在するのは意識であり、思考ではないと反芻(はんすう)する習慣を持つようにしています。

時間を生み出すのは思考であるので、この習慣によって時間の拘束を緩めることができます。

時間が幻であれば、心を悩ませている諸問題もまた幻なのではないかと感じるのではないでしょうか。

その通りで、現実的な諸問題も本当は存在しません。

心を支配していた日常生活の問題・トラブルは、自身の思考によって針小棒大に感じていただけであり、巨視的に俯瞰すれば「なんてことはないのではないか」と思える様になり、スムーズに解決に向かうことでしょう。

「過去・現在・未来の区別は、どんなに言い張っても、単なる幻想である」
アルバート・アインシュタイン

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