人は人生の大半の時間を仕事に費やします。
それを考えれば、この世界に生まれて来た理由の一つは、仕事をすることにあるといえます。
その時間を有意義なものにすれば、良い人生を送ったと言えるでしょうし、無駄や無意味に感じるようなら、人生もそれなりで、価値を感じることは難しいでしょう。
仕事に関する本は、書店の自己啓発コーナーにいけば、山積しています。
それに屋上屋を架しても仕方がないことなので、霊性的視点も加味した独自の仕事論を語ってみたいと思います。
仕事とは何か?
仕事とは、何でしょうか?
人それぞれ仕事に携わる意識は違います。
本当は働きたくないけれど、生活のため、食べるために仕事をしているという人が大半でしょう。
そうした人がいる一方、お金に余裕があって、好きなことを仕事にしている人もいます。
また、自分なりの使命感を持って熱い気持ちで仕事に携わっている人もいます。
それらを例えて次のような表現をします。
①したくはないけど食べるために仕事をしている人、生活のために仕事をしている人 → ライスワーク ②好きなことを仕事にしている人 → ライクワーク ③使命感を持って仕事をしている人 → ライフワーク |
3番目のライフワークという中のライフとは、人生とか生命という意味です。
天命に従って、自分の仕事を今生の使命だと自覚して仕事に熱く向き合っている人のことをいいます。
皆さんは、自身を考えてどれに当てはまると思いますか?
できたら、別に働かなくてもいいのだけど、好きだから仕事をする、これが私の使命だから仕事をするという②か③の働き方が望ましいです。
また、①のライスワークの人は、中長期的に②ライクワークか③ライフワークに移行できるよう考えた方が、より生きがいを持てる人生を送れるようになるでしょう。
仕事の根源的な意味
仕事の根源的・本質的意味を考えてみましょう。
それには、仕事という漢字を分解し、その意味を拾っていくと全体像が見えてきます。
仕える → 人につかえる 事える → 神につかえる |
仕事とは、「仕」も「事」もどちらも「つか(える)」という意味から成ります。
仕事とは、つかえる、奉仕するという意味なのです。
では、何に仕えるのか?
基本的には、会社の上司であり、取引先やお客様です。
私も施術家として、対価はいただきますがお客様に奉仕をしている訳です。
社長の人は仕えなくても良いのか?
そうではありません。
社長であっても株主の意向に沿うように会社を経営しなければなりません。
やはり社長であってもわがままを押し通せる訳ではなく、仕えるということでは従業員と同じです。
極々一部の人を除いて、人は仕事を通して他者に仕えています。
なぜなら、仕事を通して人間的に成長する仕組みになっているからです。
突き詰めると、人に仕えるだけではありません。
「事」もつかえるという意味です。
こちらは余り見慣れない字です。
こちらの「つかえる」は「神に事える」という意味になります。
つまり、人は他人に仕え、同時に神に事えることで自分の役割を担っているのです。
自分の仕事を想像してみて、それが神に事えることなっているのは理解しがたいかもしれません。
しかし、仕事に狂う程没頭すれば、野球の神様・治療の神様・料理の神様など、仕事にはその分野の神様が憑くよう、プログラムされています。
神を実感するためには、ある一定の熱量・本気度が必要なのです。
適当に仕事に取り組んでいては、そこに神を見たり感じたりすることはできません。
何のために仕事をするか?仕事の目的
これらのことを踏まえて、改めて問います。
あなたは何のために仕事をしていますか?
生活のため
家族を養うため
それも大事です。
資本主義経済では生活の基盤が確保されなければ、生きていくことはできません。
仕事のスキルを上げて、キャリアアップするため
たくさんの報酬を得るため
有名になるため
という目的もあるでしょう。
中には、仕事が好きで好きでたまらないから、仕事をしているのだという幸せな人もいるでしょう。
人の数だけ、仕事をする目的の答えはあり、千差万別です。
しかし、仕事をする根源的目的は一つしかありません。
それは何かといえば、それは
真理を得る(悟る)ため
です。
仕事を通して悟りを得るのです。
これは誰でも当てはまる共通の目的です。
そう言うと、「おいおい、勝手に決めないでくれ。私は悟りたいなんて思っちゃいないよ」という人も出て来ることでしょう。
仕事を通して悟りを得る、これは魂レベルの目的なので、意識の表層的にはわかりません。
でも、今の仕事でこの域に到達しえないと感じる仕事に対しては、魂が喜ばないためいつまでたっても不満・フラストレーションが溜まります。
それは、魂が「ちょっと違うんでないの」とサインを出しているのです。
人間がこの世界に生まれて来た目的、それは魂を成長させることです。
更に言えば、この世界で悟りを得る、真理を得るためとも言えます。
その目的で生まれて来ているなら、人生の大半の時間を費やす仕事の目的もそうであると容易に推論できるでしょう。
しかし、仕事を通して悟るとはどのようなことか?
「私の仕事は瞑想とかしないし、こんな煩雑な日常的雑務に埋もれる仕事の中で悟るなんて皆目見当もつかない」と思われるかもしれません。
それも無理もありません。
仕事とは人間(人格)を磨く修行である
霊性修行で心を磨くのも、仕事で心を磨くのも、共に同じ修行なのです。
修行と言うと、瞑想をしたり、座禅を組んだり、護摩を焚いたりするものを想像します。
しかし、それだけが修行ではありません。
確かに、お寺などの施設で行う修行はそれなりに行果があるものです。
ですが、修行とは宗教施設や行場だけで行うものではありません。
むしろ、修行場から離れ、日常生活に戻った時の方が一層厳しい修行となります。
人里離れた山林で行う修行は、自分自身の中で完結できますが、里の修行は自分だけではなく、様々な人との関わりの中で感じるたくさんの葛藤の中でやらなければならないからです。
まさに仕事がその修行場となります。
「井の中の蛙大海を知らず されど天の深さを知る」 |
という言葉があります。
この意味は、大海を知らなくてもいい、自分の持ち場を一生懸命掘り込んでいくことで、すべてに通じる真理に到達することができるというものです。
一芸を極めた芸術家が語る言葉には、万鈞の重みがあります。
「どうしてこの方は、狭い専門分野しか知らないのに、人生を悟りきっているような深みのある発言ができるのか」と思うことはありませんか?
それはなぜかと言えば、人生とは小なるものの中に大なるものが織り込まれているからです。
「足下を掘れ、そこに泉あり」という言葉の通り、狭い範囲でもそこを掘っていく(究めていく)ことで、人生の深遠な境地に到達することができるのです。
私も、日々患者さんと向き合う地味な生活パターンの中で、朝から晩まで店を出ることもなく、世間知らずになりながらもおぼろげながらに真理が見えてきたのは、このような理由に因ります。
知恵の蔵をひらく(稲盛和夫〔京セラ名誉会長〕)
私は技術者として、また経営者として、長く「ものづくり」に携わる中で、偉大な存在を実感し、敬虔な思いを新たにすることが少なくありませんでした。
大きな叡智に触れた思いがして、それに導かれるように、様々な新製品開発に成功し、事業を成長発展させ、さらには充実した人生を歩んできたように思うのです。
このことを、私は次のように考えています。
それは偶然でもなければ、私の才能がもたらした必然でもない。この宇宙のどこかに、「知恵の蔵(真理の蔵)」というべき場所があって、私は自分でも気づかないうちに、その蔵に蓄えられた「叡智」を、新しい発想やひらめきとして、そのつど引き出して来た。
汲めども尽きない「叡智の井戸」、それは宇宙、または神が蔵している普通の真理のようなもので、その叡智を授けられたことで、人類は技術を進歩させ、文明を発達させることができた。
私自身もまた、必死になって研究に打ち込んでいる時に、その叡智の一端に触れることで、画期的な新材料や新製品を世に送り出すことができた・・・そのように思えてならないのです。
私は「京都賞」の授賞式のときなどに、世界の知性ともいうべき、各分野を代表する研究者と接することがあります。その時、彼らが一様に、画期的な発明発見に至るプロセスで、創造的なひらめき(インスピレーション)を、あたかも神の啓示のごとく受けた瞬間があることを知り、驚くのです。
彼らが言うには、「創造」の瞬間とは、人知れず努力を重ねている研究生活のさなかに、ふとした休息をとった瞬間であったり、時には就寝時の夢の中であったりするそうです。その様な時に、「知恵の蔵」の扉がひらき、ヒントが与えられるというのです。
エジソンが電気通信の分野で、画期的な発明発見を続けることができたのも、まさに人並み外れた凄まじい研鑽を重ねた結果、「知恵の蔵」から人より多くインスピレーションを授けられたということではなかったでしょうか。
人類に新しい地平をひらいた偉大な先人たちの功績を顧みる時、彼らは「知恵の蔵」からもたらされた叡智を創造の源として、神業のごとき高度な技術を我がものとして、文明を発展させてきたのだと、私には思えてならないのです。
【出典 1日1話読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書】
神の創造を悟る
仕事を達人レベルまで深めると、稲盛和夫氏が言うように人は「知恵の蔵」「真理の蔵」ともいうべき叡智をダウンロードできるようになります。
このようにして、神レベルの仕事を遂行できる一部の人が牽引し、社会は発展してきたと言っても過言ではありません。
仕事のレベルが高まり、ある一定の熱量(エネルギー)を超えると、徐々に神の創造の世界に触れるようになります。
この世界では、気力でも、重力でも、速度でも、ある一定のエネルギー量を超えると意識が変性するようになっているようです。
神の創造の世界・・・それはどのようなことかというと、私たち一人一人はこの地球という星に生息するたくさんの生物と同じ一構成要素と考えていますが、それと同時にこの世界を創っている創造主であるという悟りです。
構成要素でありながら、創造主である、これは相矛盾する概念です。
しかし、このような宗教的悟りは物理学でもおそらく解説できるのではないかと思います。
この感覚は、自分が世界の中心であるという天動説的な生き方です。
または、同行二人(常に神と共に歩む)、これは四国八十八箇所巡礼の時に言われる言葉で、弘法大師空海と一緒に巡礼をしているという意味なのですが、これと同じく神の手となり足となって自分は生きているという感覚とも言えます。
この境地では、自分は神に突き動かされて仕事をしているという感覚になります。
神の意思を体現しているのが、自分自身である、どこまで行っても神と不即不離で、神世界の実現のために自分がこの世界にいるのだという境地です。
これは狂っているかと思われる程仕事に魂を打ち込み、相当量の熱量を持ってくると、スポーツでいう「ゾーンに入る」状態になり、意識が変性しそれが持続すると考えられます。
私も10年位前に「同じ病気の人が集まる不思議」というブログ記事を書きました。
この記事は、拙著「邪気を祓って幸せチャージ」にも掲載しました。
これは自分の仕事に顕現する神の奇蹟的現象を感じ書いたものですが、この当時から私は神の意思を汲んで仕事に携わっています。
マザー・テレサへの質問(上甲晃)
当時のカルカッタは人口1千万人のうち200万人が路上生活者で、至る所に生死もわからない行き倒れの人が転がっていました。
全身から膿を出している人、うじ虫の湧いている人、とても側に寄れたものではありません。
しかし、マザー・テレサと仲間のシスターたちは、一番死に近い人から順番に抱きかかえて、死を待つ人の家に連れて行き、体を綺麗に洗ってあげ、温かいスープを与えて見送るのです。
せめて最期の瞬間くらいは人間らしくと願ってのことでした。
運よく、カルカッタの礼拝堂でマザーに面会することのできた私は、「どうしてあなた方は、あの汚い、怖い乞食を抱きかかえられるのですか?」と尋ねました。
マザーは即座に、「あの人たちは乞食ではありません」とおっしゃるので、私は驚いて、「えっ、あの人たちが乞食でなくていったい何ですか?」と聞くと、 「イエス・キリストです」 とお答えになったのです。
マザーは更にこうおっしゃいました。 「イエス・キリストは、この仕事をしているあなたが本物かどうか、そしてこの仕事をしているあなたが本気かどうかを確かめるために、あなたの一番受け入れがたい姿で貴方の前に現れるのです」
目から鱗が落ちる思いでした。【出典 1日1話読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書】
マザー・テレサは、当初神の声を聞いてインドにやってきました。
その後も常に神の声を聞いて、神の指示の下に行動をしてきましたが、ある時期からまったく神の声を聞くことはできなくなりました。
マザー・テレサは神に見放されたと思い、ショックを受け、大いに落胆しました。
しかし、実際には見放された訳ではなく、この世界は自身と神が創造しているものという違う意識のステージに移行していたのです。
もう指示待ちの声を聞く必要はなくなっていました。
そして、自身の目の前に現れる貧民をイエスキリストと捉え、この世界は自身と神が創造という共同作業をしているという意識で生きていました。
これが仕事を通して悟るという境地です。
自分の周りには上司や顧客などたくさんの仕事上の関係者がいますが、自分のことをそれらと同じ地球上の構成要素として同じ並びで捉えるのではなく、すべては自分自身と神が世界を創造している主役として認識しているのです。
自分の意識の状態によって目の前に顕現する現象が変わっていくのです。
仕事に対し、熱意を持続し集中することで、全ての人にそのような意識の世界が拓けてきます。