神は篤い信仰を持つ人には、手を差し伸べ、時には奇跡的な現象を起こすことがあります。
神という言う言葉に抵抗があれば、サムシンググレート・大いなるもの・宇宙と言ってもいいでしょう。
奇跡的な現象とは、確率論を超えたものであり、物理的な法則を超えたものです。
その様な奇跡と遭遇すると、説明のつかない不思議に感動と感謝を覚え、神の実在を身をもって確信するのです。
古(いにしえ)から熱烈な求道者はその様な神秘的現象に触れ、神の手となり足となることに人生を捧げていったのです。
おそらく、文書や経典という文字情報を頭で理解したというレベルではないのだと思います。
神の奇跡を体験した人は、往々にして自らの内に留め、他人に体験を吹聴したりしません。
たとえそれを他人に言ったとしても、たいていは相手が理解できないし、場合によっては自慢されている様にとられて不快な思いをさせてしまいます。
例えるなら、「こんな夢を見たよ!」と喜々として誰かに話をしても、相手は「良かったね!」と同調してくれるかもしれませんが、心の中では「だから何よ?」と思っている・・・この様な反応になってしまうに違いありません。
実際には、神の奇跡を体験している人は少なくないでしょうが、他人に話をしてもどうだろうかという点で心の内に留めておくことになるのでしょう。
神の奇跡は何の信仰もない人が、ある日突然遭遇するものではないと思います。
今世、または過去世において篤い信仰を持って来た一定の時間と熱量が必要です。
神を想うこともなく、即物的な生き方をしてきた人が、偶然にも触れることができるというものではありません。
かくいう私も不思議な神の恩恵に与った経験が少なからずあります。
しかし、先述の理由によって他人と共有はしてきませんでした。
この様な体験を他人に伝えても、自慢げに聞こえ、「いいなぁ」と嫉妬されるか馬鹿にされるだけです。
しかし、この様な体験の積み重ねが現在の自分の人格形成に大いに寄与しているというのは間違いがないことです。
こういった体験は万余の書を読む経験値よりも上をいくものです。
私は「密教瞑想講座」の教師として、これまでも多くの生徒さんから数々の神の奇跡体験を聞いてきました。
その様な誰にも言えない話を聞いて、「それは・・・という現象ですよ」とか「・・・・という意味があるのですよ」とか審神者(さにわ)的に解説を加えています。
そして、体験を開陳してくれた生徒さんには、必要を感じた場合に「私も・・・・という同様の体験をしたことがありますよ」と胸の内に秘めていた体験をお話し、秘密を共有することもあります。