人を導くのに欠かせない「機を得ること」の重要性について

霊性修行の道を歩んでいる人は、自分が体験している恩恵や成果を人に教えてあげたいと思うことがあるでしょう。

宗教団体ではその様に幸せ体験をシェアして信者を獲得していく訳ですが、勧誘活動というのは往々にして思う様に進まないものです。
宗教の勧誘や押し売り程、人に嫌われるものはありません。

仮に宗教に加入するまで導いたとしても、その人が熱心な信者になるとは限りません。
なぜなら勧誘を受けた人は、神や真理について知りたいとさほど考えていない可能性が大だからです。
「お友達の〇〇さんが言うから仕方なく入ったけど・・・」という位なものです。

馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ますことはできない

という言葉があります。
これは霊性の道に人を案内することを例えた言葉です。

「よい教えがあるよ」「その話を聞くと人生がよくなるよ」・・・と自身が学んだことを伝えようとして入り口まで連れて来たとしても、その人が教えを聞いて吸収するかどうかは別物だということです。

馬が水を飲む様にするにはどの様にしたらよいのでしょうか?

それには渇きが必要です。
水を飲みたいと欲する心が必要です。

では、どのような時に神や真理について学びたいと思うのでしょうか?
それは、人生の困難にぶち当たって心が折れそうで辛い時です。
苦しい目に会わないと真理への渇望は湧いてこないのです。

中には生まれ持って高い魂の人もいて、その様な人は自然と霊性の道を歩み始めるものですが、その様な人は少数派で、大抵は人生を変えるきっかけになる出来事が必要です。

その出来事・困難とは、病気・失恋・失業・離婚・・・などたくさんあります。
なかでも、やはり病気が辛いでしょう。

病気になって痛い!苦しい!
病院で診てもらっても全然良くならない、どうしたらいいのだろう?
なぜ自分だけがこんな病気になってしまって苦しむ目に会わなければならないのか?
一体いつまでこの苦しみが続くのか?
どうして、何が原因で病気になってしまったんだろう?

このようなことを延々とグルグル考える訳です。

そうして、答えはありませんが、自分なりに「生活習慣が悪かったんだろうなあ」とか「自分は人を恨んでばかりで、心持ちが悪かったに違いない」とか、原因を探求します。

そうして苦しみの中で「ああでもない」「こうでもない」と試行錯誤する中で、

「一体どうして自分は生きているのだろう?」
「死んだらどうなるのだろう?」
「何のために生まれて来たのだろう?」

・・という根源的な疑問が生じてくる様になります。

その答えを強く求める思いが、渇きです。
その様な人を水辺に連れて来てあげれば、どんどん水を飲んでいくことでしょう。
渇きが強い程、真理をたくさん吸収して成長していきます。
つまり、人を導くには機を得ないと難しいということです。

一般的にも、人を導くのに機を得るというのは大事なことで、受け入れる準備が整っていない人にいくら与えても入っていかないものです。

この様に考えれば、人生の苦難というものは、人を育てる起爆剤や肥料の様なものだと思います。
「辛いなあ~」「苦しいなあ~」と幾度も幾度も思うところで、人間は成熟し向上していくのです。
そう考えると苦難というものは有難いものです。

私は気功治療の現場で数多くの苦しみに耐える人に向き合ってきましたが、そのような場面で「この世界にどうして苦しみがなくならないのだろう?」と神を恨めしく思ったことも何度かありました。

結局、苦難というものが人間の魂の成長に必要だからということに他ならないのでしょう。
「人間の精神の偉大さは、その苦悩の深さに比例する」と言われる所以(ゆえん)です。

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