人はこの世界で数十年の期間過ごすよう寿命をいただいています。
人によって寿命は違いますが、その終わりがくればやがて肉体を脱ぎ捨てあの世に帰ります。
それは誰も例外がなく、必ず100%来るものです。
世の中は不確実なことが溢れていますが、唯一絶対間違いがないのは、やがて私たちが死を迎えることです。
私も、読者の皆様も1日1日と死に向かって歩んで行っています。
そして、少しずつこの世で過ごす時間が減っていっています。
そうした中、「なぜこの世界に生を受けたのか?」考えたことはありますか?
一体何をするために生まれて来たのだろう?
私の使命は何だろう?
只々食っちゃ寝して無駄に過ごすためにこの世界に生を受けた訳ではないでしょう。
私自身の中ではその答えは明確になっています。
それは、
魂を進化向上させ、解脱と悟りを達成するために生まれてきた
それに尽きます。
解脱とか悟りとか、仏教的な思想に馴染めない人には、あまりピンと来ないかもしれません。
それでは、別の表現で、
人は幸せになるために生まれて来た
と答えましょう。
人は誰もがこの世界で幸せになるため、幸せに生きるために生命をいただいているものと考えています。
「幸せになりたい」と望む人はたくさんいます。
しかし、実際「幸せですか?」と問われ、「はい」と即答できる人は少ないでしょう。
「素敵な旦那さんを見つけて結婚したい」
「事業を起こして発展させて大金持ちになりたい」
「若くてカワイイ彼女を作ってデートをしたい」
「投資で成功して一生遊んで暮らせるだけの不労所得を得たい」
…と、まぁ人の欲望というのは様々で、それらを得ることができれば幸せになれると考えています。
それは、「今は幸せではないけれど、目標や夢を達成したら幸せになれる」という考え方です。
「いつの日か幸せになれる」
と考えているのです。
世の中の99%の人は、そのように夢を持って生きることが当たり前と考え、それを得れば幸せになる、そのような思考回路で生きています。
でも、私は「それはどうなのかな?」と思うのです。
つまり、それは外部の刺激によって幸福感を得られるという発想です。
しかし、それは麻薬と同じで、薬が切れたら、得たものを失ったら、また幸せではない状態に後戻りしてしまうでしょう。
感覚的な刺激では、真の幸せは得られません。
外部の刺激によって得られた幸せは、いずれそれに飽き足らず「もっと欲しい、もっと欲しい」と欲望が肥大化します。
それはどこまでも飽くことのない状態です。
欲望が肥大化した「千と千尋の神隠し」に出て来るカオナシが「もっと持って来い」と飯を要求するのと同じです。
また、一方でどこかに失うことの恐れが浮上してきます。
もし失ってしまえば、カオナシが食べたものを全部吐き出して腑抜けになってしまったように落ちてしまうことでしょう。
今、幸せでない人が何かを得たら幸せになれると考えていると、その目標や夢を得た段階で、
幸せの状態に飽いてしまい、次の目標や夢を探すという欲望の無限ループとなります。
その姿は、あたかも砂漠で遭難し、水を求めて蜃気楼を追っている人と重なります。
追えば追う程逃げて行きます。
外部の刺激によって得られた幸せは、たとえそれが得られて舞い上がるくらい嬉しくてもそれは霊性的に見れば、一時的な儚い快楽や刺激に過ぎません。
本当の幸せは、何も無くても幸福感が持続するものです。
「日月神示」では魂がステージアップした人の境地を「嬉し嬉しの世」という表現をしています。
それは外部の刺激に依らず「嬉しいな、ありがたいな」という穏やかな幸せがいつまでも持続することを言っています。
そして、それは何かを失っても、また逆境の中にあっても、変わることはないのです。
それには今あることに満足するという「足るを知って感謝する」考え方が必要です。
外からの刺激はまったく要らないのです。
最も豊かな人は、足ることを知っていて執着のない人なのです。
私は生きているだけでありがたく、「幸せだなあ」と感じます。
身体の調子が良くない日もあるけれど、それでも耐え難い程の苦痛がなく、そこそこ元気に過ごせているので、ありがたいとしかいいようがありません。
日常面倒くさいことが起きたり、多大なストレスがかかったりすることもありますが、そんな中でもその多幸感は消えることなく、幸せな状態は続いています。
肩書も権威もなく、持っている物も人に比べて少ないですが、それでも「恵まれているなぁ」「幸せだなぁ」と感じています。
何もなくとも、ただ在ることが幸せという状態になるのが、理想的な生き方であり、生まれて来た目的ではないか思います。
そのような幸せの状態は外部の刺激の有無によって成るものではありません。
幸せになるには、今あることに幸せを感じ感謝する、その感受性を養成することです。
要は、感じ方であり、考え方一つです。
幸せは外にあるのではなく、内にあることに気付きましょう。
その多幸感は、周りの人に波及し、周りの人も何となく幸せになり、幸せの輪が広がっていきます。
そのようにして幸せになれば、神様はきっと「地球でちゃんと務めを果たしているな」と喜んでくれることでしょう。