人の悩みや心配は、人それぞれです。
高尚なものから、どうでもいいだろうと思えるものまで千差万別です。
人の意識のレベルによって、心配の内容が全然違うわけです。
日本の行く末を悩み、いかに行動していけばよいだろうかと苦悶する人もいれば、スーパーで買ったハンバーグのお肉が他のスーパーより30円高くて「あそこで買うんじゃなかった」と後悔しきりの人もいます。
人の心の中は覗けません。
ハンバーグの話はたとえですが、大きなことや高尚なことを考えて過ごしている人もいる一方、傍から見たらくだらないと思えるものに心をとらわれて過ごしている人もいます。
それが意識の違いというものです。
私は日々遠隔療法を通じてお客様の悩みが解決するよう勤めています。
遠隔療法では、通常はお客様から心身の病気や症状の悩みが寄せられ、それが解決するよう神仏に祈り、気(エネルギー)をお送りしています。
病気のことだけではなく、人生の問題の解決のために気を送ることも少なくありません。
「○○大学に合格するように」
「主人の会社が持ち直すように」
「売れない土地が売れますように」
などという具合です。
しかし、そうした中で、どうにもくだらない内容の依頼が来ることがあるのです。
実際の依頼の内容を書いてしまえば、そのお客様がこの記事を読む可能性があるので、本当のところは書けませんが、同じような内容で例えると、
「娘がBL(ボーイズラブ)のマンガばっかり読まないようにしてください」
「怪我をしたら大変だから娘が公園でブランコに乗らないようにしてください」
「息子が嫌いなピーマンを食べるようにしてください」
という具合です。
このようなつまらない依頼は、往々にして子供のことが多いです。
子供を心身健全に育てようとする親心だと思いますが、どうにも過干渉のように思えてなりません。
子供のためを思って、親の思うように育てる・・・それは本人にとって愛情のつもりでも第三者から見ると支配しコントロールしているようにしか見えません。
場合によっては、本人は自覚なくても毒親に該当する人もいるのではと思います。
これらの相談は、本人にとっては切実なのかもしれませんが、私からしてみるとどうにもくだらない内容に思えます。
私は自身の施術を「神様への取り次ぎ」だと思って、日々務めていますが、「そのような内容を神様に頼むのか!?」と言いたくもなります。
私も人の子ですから、「絶え間ないがんの痛みが苦しいのです」と依頼があれば、「それはお辛いことだろう」と気力を振り絞って祈り、気をお送りします。
しかし、「息子がゲームばかりしているので何とかしてください」とお母様から依頼されれば、「自分で何とかしろよ」という気持ちになり、祈りも身が入らなくなります。
遠隔療法というのは、その最中には一生懸命一心不乱にマントラ(真言)を唱えますので、結構エネルギーを使うのです。
終わった後は、ぐったりする位です。
そのような施術をするのですが、依頼の内容がくだらないと「一体オレは何をしているのだろうか」と情けなくなることもあります。
人の悩みや心配事はその人の意識レベルに応じて異なりますから、私にとってくだらないと思える内容であっても、本人はそれが大きな問題であり、心を悩ませ煩悶しているのかもしれません。
毎月やっているご神木プージャ(護摩行)でも、様々な悩みの解決を依頼されます。
中には「こんなものまで!?」と思える珍妙な悩みもありますが、ご神木プージャを始めた当初から参加しているYさんは毎月ご神木に「世界平和」と書いて送ってくれます。
もう6~7年になるのでしょうか、自分自身のことは一切何も書いてありません。
しかも、ドネーション(お布施)は毎月結構な高額を納めてくださいます。
これはYさんの世界観で、世界の平和が個(自分自身)の平穏と連動しているという悟りに近い境地にいるからそれができるのだと推測しています。
このように世界や国家や社会、または会社などのユニットが悩みの対象となる人もいる一方、子供のことだけが気になって気になって仕方がないという人もいるのです。
(※ご神木プージャはどのような些細なお悩みでも遠慮なくご依頼いただいて結構です。)
かつて、シルディ・サイババは、
「家族は執着だ」
と言ったことがあります。
執着というのは、ネガティブに物事を捉えている表現です。
私は、日本では家族は最小のユニットで、家族愛を育む素晴らしいものだという考えがありました。
それはあたかもサザエさんの家族のような、みんな笑顔で仲良くね!というイメージです。
しかし、現実には家族を自分の思うようにしたいという我が出てきて衝突は日常茶飯事です。
「脱いだ靴は揃えてってあれほど言っているのに!」「おしっこをする時は座ってしなさい!」「何度言ってもわからないのね!!」と息子にプリプリイライラして血圧が上がっているお母様もいることでしょう。
結局、家族を自分の思うようにすることはできないのです。
不動尊信者の実践行に、「奴僕の行」というものがあります。
成田山のホームページには、次のように書かれています。
奴僕とは召使を意味する言葉で、献身的に他者に奉仕する者を指します。お不動さまは、あらゆる人びとを苦しみから悟りの世界へ救い導くために、青黒色の肌をした奴僕の御姿となって、私たちを御加護くださっています。
https://www.naritasan.or.jp/about/mioshie/
お不動様の奴僕の行に従い、私たちもすべての人びとに奉仕する・・・それが奴僕の行の意味です。
不動明王(お不動様)は、私たちを悟りの境地に導くために、奴僕となって献身的に護って導いてくださっているのです。
お不動様はどのようなお気持ちなのでしょう?
人間の奴僕となるなんて大変だろうと思わずにはいられません。
時には、「こんなくだらないことでオレを使うな」と怒り心頭になることもあるのでしょうか?
よく一人称で「僕」と使いますが、それは本来は召使いやしもべという意味です。
相手よりへりくだった謙譲的な表現です。
相手のしもべになりたくない人は、一人称を「ワシ」とか「我輩」と言った方が適当でしょう。
お不動様のように奴僕の行を勤めるのであれば、いかにつまらなくくだらないことであっても四の五の言わずに黙々と勤め上げるのが理想の姿といえるのかもしれません。
思えば、人は誰かに仕えているといえます。
会社の上司や取引先、夫など・・・
いつもいつも理不尽なことがたくさんあるでしょう。
人生はどうしてこんなに理不尽なのかと思いますよね?
かつては白馬の王子様よろしくキラキラとカッコよく見えた主人も、恋が醒めてしまえば「一体どうして私はこんなだらしない中年の男と一緒にいるのだろう」と悪い夢のように思えてしまうご婦人も多いのではないでしょうか。
そんなご主人様にも笑顔で「お仕事ご苦労様」と送り迎えするのが、奴僕の行です。
私もつまらない遠隔療法の依頼が来ても、「それは大変でしたね」と、つまらないという気持ちは臆面も出さず相手の気持ちに寄り添っていつも応対するよう心がけています。
難しいことをやり通すということで、奴僕の行が修行たる所以なのでしょう。