現代は有史以来最も本が流通し、ネットでも膨大な情報が氾濫している時代です。
その意味では自分が望む情報をこれまでよりも最も簡単に検索でき、入手できる便利な時代になっているといえます。
弊塾では気功や瞑想の講座を主催していますが、それらを学ぼうとすれば高いお金を払わなくても幾らでも本や動画から学ぶことができます。
私も本は好きで、これまで本はたくさん読んできました。
自宅の自室も店舗の事務室も多くの書が乱雑に並べられています。
その上で思うことは、本から学ぶことはどうしても限界があり遠回りだということです。
日本の芸事の世界では、師に内弟子として入門し、長い年月をかけて師の技を学び継承していく方法を採ります。
なぜそのようなことをするのでしょうか?
確かに知識・テクニックだけであれば活字で伝えられるところもあるのですが、芸の世界ではそれを表面的に身に付けるだけでは片手落ちであり、より深い技や味わいを出すために師の持つ気(エネルギー)や呼吸、雰囲気、思考法を体得するという目的があるからです。
よく職人やスポーツの世界では卓越した技のことを神業と言います。
そのような域に達するには、その技芸において見えない壁を幾つも超え、誰ものぞいたことがない深遠な世界に踏み込まなければ、神の領域の技を体得することはできません。
その域に到達するためには、まずは師が持っている見えない力を師の身近で受け、それを自分自身にコピーをするところから始まります。
そこからの成長過程を芸事や武道などでは「守・破・離」という言葉で表現しています。
入門してしばらく(と言っても相当長期間)は師の技を自分に移す、コピーする。
つまり、その伝統・伝承の技を忠実に守るという意味で「守」の段階です。
それから師の技に自分自身の創意を加え、独自の世界を切り拓いていく意味で「破」の段階となり、師から離れ自分自身の世界をより深く研究し歩んでいく意味で「離」の段階へと移ります。
気功も相伝の技を身に付けるのですから、このことが当てはまります。
むしろ、他の技芸以上に師の持つ気(エネルギー)を身近で受け取ることが重要となります。
それは本で学ぶものとはまるでレベルが違うと言っても過言ではありません。
確かに本もその著者に力量があれば、その本からも気(エネルギー)が伝わって来ます。
しかし、それでも本人の間近で受け取る分量とは天地の違いがあるものです。
うまく本を活用すれば、体系的に短期で知識が身に付くメリットがあります。
本を読んでいるときは、それが自分の中核(コア)になっていくような感覚があるのも確かです。
しかし、実際は自分のコアとはなかなかなっていきません。
師から学ぶことは、知識量だけではなく、目に見えない部分の情報量が多大なのです。
本から得る知識というのはそれを補足し、裏付けるような位置付けになるという感じがします。
つまり、知識として頭に入ることは入るのですが、血肉になりにくい。
本ばかり読んで来て体験がない人には、「知識ばかりたくさんあって、頭でっかちでどうしようもないな」と、高慢で素直でない態度が鼻につく時が往々にしてあります。
神典「日月神示」でも「学の鼻高さん」とそれを揶揄しています。
ヒマラヤ聖者のスワミラーマは直接的体験(≒直伝)と間接的体験(≒本)の違いであり、叡智というものは直接的体験のみで得ることができると言っています。
スワミラーマは数々の師や書から幅広く学んだ聖者ですが、スワミラーマは自分自身が理解できない書の解説を文字も知らない聖者から学んでいました。
その聖者の名前は出ていませんが、自分の名前も綴れないこの聖者に叡智の点で及ぶものはいないというのは興味深いところです。
かつて、スワミラーマはこう言いました。
スワミラーマ
「どの言語の文字さえ知ることのなかったこの聖者は、いつも私の疑念をはらしたものだ。自己覚醒に至った有能な師のもので体系立てて学ぶことで、エゴの浄化の助けになる。そうでないなら、経典の叡智は人を利己的にする。今日知性的と言われる人々は、様々な書物や経典から事実を集めているだけだ。実のところ自分のしていることを分かっているのだろうか。知識で知性にえさを与えることは、何ら滋養のない食べ物を食べているようなものだ。それらを食べ続ければ病になり、他人までをも病気にする。たくさんの師がおり、皆よく教えているが、汚れのない、自ら体験した師の教えでなければ、生徒は吸収することができない。」
知性を誇る人であっても、その知識の蓄積の源は学校教育で学んだものや、マスコミが作り上げた虚構の世界の情報の集積と言えます。
その人にオリジナルなものがあるのでしょうか?
真理を体得していたり、叡智で人を感化する力を持っていたりするのでしょうか?
私自身も師のお導きで日々変わりつつあるのを実感しています。
書のみで学ぶのはどうしても限界があるのです。
より大きな恩恵を受け取ることができるのは、師の身近にいるほんの少数の熱意ある人達だけであるというのは、技芸の世界では分野を超えて真理なのです。